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  偏見ご免のたわごと編:  No.202
優しいということ_慈しむ心からあるいは見せかけ 2023.02.13
  私は仏のように優しく生きたいとよく言っている。仏についての知識はないが何かの仏教に関する本を見て仏の性質とあった優しさとはどういう優しさかと考えて、自分なりにお見通しのうえで優しいというのが仏の性質であると理解してのことである。

私が仏のように優しく生きたいと言っているその意味は、まず相手がどういう人間でどう思っているか見通すことが出来る人間にならないといけないのだが、その上で見通せたとして例えば相手が自分をバカにしていたり疎んじているとか分かっても、それでも相手に優しく出来るほどの人間になれればよいなということである。

そのひとの優しさとは見方が違うようなのだが、2022年9月に見たネットで「優しいひとを怒らせてはいけない」という記事を見た。そこに書いてあった優しいというようなひとはどんなひとかというと、一般的に思われているのは普通はムッと来るところを怒らないひととか困っている人に対して他の人が知らん顔の中、わざわざ手を差し伸べる行為をするひとのことであるとまず書いてある。

だが、優しいと見えるひとには、底なしの温和さから来ている優しさを持ったひとだけではなく、外見そう見えても合理的な優しさを持ったひともいるということである。合理的な優しさという意味は合理性に裏打ちされた優しさということ、つまりそうするのが得だ、つまり評価されると思っての見かけの優しさということである。

そしてそういう打算的に優しい振る舞いをするひとは、必要性に駆られて優しい人になっているだけで、余裕の無さを見せると信用を失うと恐れ、ムダな争いをしたり感情的に相手より有利に立とうとする姿を晒すことは恥ずかしい行為と思っているから表面上は穏やかで冷静な姿を見せる。だがそれは相手を慈しむ心から来てはいない。そういう相手には注意した方がよい。その優しさに甘えては怒りを買うし必要性を感じなくなれば切られるだけであるということである。この記事はビジネスマン向けに書かれていて、それを警句とすべく「優しいひとを怒らせてはいけない」というタイトルとしたようである。

私はそういう打算的な相手をそれとは分からず虎の尾を踏んだなと思う経験は何度かしたことはあるが、いまもって前もって何となく分かるという域に達していない愚か者なので、いまもそういう鈍感さで何かやらかして不興を買っているかも知れないと気になること無きにしもあらずだが、以上がネット記事に出ていた優しさについての見方の一端である。

そして私が仏のように優しく生きたいと望むのは相手を慈しむ心からというよりは自分の在り方に納得したいからなので、そういうことから考えればネット記事に言う打算的な気持ちからではないとは言い難く恥ずかしい限りである。私の仏のように優しく生きたいという望みとは、仏の優しさには程遠い見せかけの優しさを見せかけのままで生きて行きたいということかも知れない。


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