「噛み合わない会話と、ある過去について(辻村深月著・講談社文庫)」という本を読んだ。四つの短編からなる小説本だが、私は最後の「早穂とゆかり」が一番思い当たる感じがあって気持ち悪かったが、心に受けた傷に関して自分も無意識にひとを傷つけていたかも知れないあるいは鬱屈した思いをしたのはそういうことだったのかと思って読んでいた。
本の主題は、むかし行動的グループで影響力を持っていた人間の心ない言動が、そこから外れた人間に忘れ得ないほどの心の傷を残すことについてのはなしである。した方はそんなことは意識にない。そして年月を経て主従逆転して再会するのだが、された方はむかし自分をないがしろにした相手に自分の痛みを味わわせようと攻撃的会話で責めるも会話は噛み合わずわだかまりは消えない。自分の痛みを分かってほしいという望みはかなわない。そうなることは分かっていたが責めないではいられなかった。心の傷で止まっていた自分の時間を再び動かすためにそれは必要だと分かってやっているのである。そしてないがしろにした人間の方もむかしの自分の言動を反省はするものの、そういう状況にあったのは自分のせいだけではないという思いは消えないのである。それが、むかしのある過去といまの噛み合わない会話ということである。
この本の解説は、東畑開人(臨床心理士)というひとが書いているのだが、私は小説の本文より解説の方が印象に残った。かつては人気者、相手はほとんど目立たない。それをよいことに振舞う自分の態度、それを我慢している相手。そしてそれに傷ついた相手の心に忘れがたい傷が残る。そこに幽霊が生まれる。つまり忘れがたい心の痛みが生き続けるわけである。そして主従逆転して再会。噛み合わない会話にその幽霊が蘇り復讐さながらにむかし自分に痛みを与えた相手に激しい攻撃を仕掛ける。それはただの復讐劇ではない。かつての自分が感じた痛みを分かってくれるかもしれないという思いから再会を機にそれを相手に伝えることを試みているわけである。なんで分かってくれないのという思いには希望が含まれている。しかしその会話は大体は噛み合わない。例えそうなっても痛みを受けた人間の止まった時間を再び動かすために会話は必要だ。そうすれば先に進めるのだからということのようである。私はそのように解説で言っていると思って読んだ。
私も、ひとをないがしろにして付き合いをおろそかにしたことはある。またないがしろにされあるいはなめられあるいはオミットされたことも多い。自分が鬱屈した気持ちとか無力感に苛まれた経験はいまも忘れがたく残っているが、自分が他のひとに与えた痛みについてはいまのところ一つを除いてあまり具体的に憶えていない。そのようにやられた方はいつまでもその痛みは残っているが、やった人間の方にはたいして記憶に残っていないのである。それがこの本のはなしだが、いまの私は噛み合わない会話をする気はなく、ただのむかし話として思い出すだけの心境である。ただ自分がやられた人間よりは長生きしたいとは思っている。また私がやった側のことについては恥じているのだがそういうことを知る当時のひと達とはあまり会いたくない。恥じてはいても会話は多分噛み合わない。ところで、本は妻が買ったものだが、どういう心境で買ったかあるいは何かむかし受けた痛みがあるのか、そっちが何となく気になっている。
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