屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.335 愚者のこと  [H22(2010).03.22]

大分前だがTVであるインタビュー番組を見て印象に残っていることである。リーダーが賢しく細かいことを言っていては人材は育たない。賢人愚者を演ずという言葉もあると言っていた。インタビューされていた人はどこかの大企業から出て成功した人のようだったが、どこの誰だとかいうのはいま記憶にない。ただ偉いと思っている人が偉そうに上からものを言ってチャレンジの芽を摘んでしまっている組織は多い。リーダーは素人のように見聞きしたことに関心を持ち感心するようでないと新たなチャレンジをする人材は育たないということらしい。

そこで印象に残った愚者を演ずということについてのことである。演ずるに意識しているのはまだまだであると私は思っている。日常の仕事などでも経験することだが、こちらは当たり前にやっていてなにもアッピールするほどのことでもないことを自分が出来たとか出来るとかと騒ぎ立てる人間がよくいるものである。それなりのレベルにあるならば、(自信があっても)能ある鷹は爪隠してあるいは(もっと高いレベルがあることを分っていて)自分は及ばないと自覚して謙虚になるものである。しかしこれは意識して演ずる類である。

私が思うに賢人愚者を演ずの究極は極意を極めてもそれが自分では当たり前となって賢しく誇る意識もなくなり普通のおっさんにしか見えないようになる状態である。弓の名人が修行に出て究極を極め帰ってきたら凡々たるその辺のおっさんと変わらないように見えたというようなはなしが、中島敦の弓の名人の小説にあったような記憶がある。それを思い出して勝ち負けや上手い下手や名声などにこだわりが無くなればそういう状況になるのではないかという気がしたものである。

ところがもっと上があるようである。最近読んだ宮沢賢治の童話とか詩を集めた本の巻頭の解説みたいな文に、宮沢賢治は菩薩になろうと努力した人間だというようなことが書いてあった。相手がなにを考えているかすぐに分るだけでなくすぐにその場に行ってその人を助けられる、そういう人になりたいと願った人であったということである。困っている人を時空を越えて救済したいという思い・理想に比べるとただ無私になるというのは名人の域ではあっても仏の域ではないようである。

さて、私のことである。私は能力はないし人から一目置かれる人間でもないが馬鹿にされ見下されることには人一倍敏感である。それでも平然としていられるように、ただただお見通しの上で優しく振舞えるようと願って暮らそうとしている(「No.5:田舎にうつってくること」最後段参照)。お見通しの上で優しいとは仏の性質の一つだと何かの本で読んでそうありたい、そうなれば平静な気持ちで過ごせるだろうと思ってのことである。だが自分が楽に生きていたい、それしか考えていないからかその甲斐もなく、時々自己嫌悪に陥るほどに俗念に惑わされているのが現実である。賢人と目されたいという誘惑からまだ逃れられない卑しい愚者のままである。


 
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