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  偏見ご免のたわごと編:  No.306
何を目的として働くか_やったと記憶に残ること  2024.06.06
  私は会社で自分がどういう立場でどういう仕事をしているかというようなことを家族に言ったことはない。多分私が具体的にどんな仕事をしているか妻子は知らなかったと思うし親類縁者は全く知らなかったはずである。私が仕事をするに当たって思っていたのは、なるべくあとから自分は何をしたか思い出したときに自分なりにこれは自分がやったと納得出来るようにやれればよいなということである。誰かを手伝うにしてもその仕事の中でこれは自分がやったのだとあとで自分が納得出来ればそれでよいと思ってやって来たわけである。

いままでの会社人生で四つくらいそういう風に自分で思っていることはある。他人の評価はどうでもよく、自分がやったと納得していることということである。そしていまは2000年くらいから続けている本サイト・ホームページの作成が多分これからの自分がやったと納得できるものだろうという気がする。本サイトにしろ、いままでの仕事で納得出来るというものにしろ、他人がどう思うかを気にするものではない。あとで自分は何をしたかと思い出したときに、自分の記憶に残っているあるいは多分自分の記憶に残っているだろうと思うものである。

仕事でも家庭生活でもよいことにしろ嫌なことにしろいろいろ出来事はあって年を経ても記憶に残っていることがある。多くある嫌なことは別にして、やったと記憶に残るものがいくつかあればそれなりに自分の人生に自分なりの意義を感じるわけである。仕事は食うためにすなわちお金のためにする面がある。自分がやりたいと思うことをやっているとは限らない。多分ほとんどはお金のために仕事についてそこですることになったことをやるわけである。

そこで地位が上がることいわゆる出世を自分の人生の価値基準にするか、あるいはあとで自分はこれを成したと納得出来ることを自分の人生の価値基準にするかで、年をとってから自分の成したことを自分に問うときその問いに答えるやったと納得出来る記憶がどういうものになるのか気になっている。私は後者を選んで来たのだが、前者にはどういう記憶が蘇りどういう人生の意義を感じているのか気になっている。

こういうことを私が話題にするのは、ある男がかつて宴席でどういう仕事かも肩書も言わない私を自分より出世しない人間だと思って見下しながらちょっと地位が上がったからと出世自慢をして粋がっていたことがときに不快な思い出として蘇ることがあるからである。話題にしてうっぷんを晴らしたい気分からであるが、その人間はもう退職して久しいが何々を成したと自分として納得していることがあってそれを思い出すことがあるのだろうかという興味もあるのである。


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