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  偏見ご免のたわごと編:  No.196
自分史貰って困ることも_誰に向けてあるいは何のために 2023.01.23
  むかしそれも40年近く前のことだが会社の同僚に、自分の結婚式の写真を載せて来る年賀状を貰ってもその取扱いに困ると言っていたひとがいた。本人は自分の関心事第一だからそうしたいのだろうが、深い付き合いでもない間柄でやりとりする社交辞令の年賀状はそのうち処分することになる。それにそういう記念写真を載せて寄こすなよということである。

それに似たような感じがあるが、自分史もそれを書いたからと贈られてもどう取り扱ったらよいかと困るのである。そもそも自分史は自分がどうして来たかの経過を自分の視点でまとめたものだと思われる。どういう視点でまとめたかにそのひとの価値観が反映されているわけである。そのひとが伝えたい誰かに伝えたいことを伝えたいようにまとめているわけである。

それはそれでよいのだが、誰でも読んで得ることがあったということにはならない気がする。介護の現場ではそのひとの考え方・価値観を知って介護できるから助かるらしいが、それ以外では多分、家族それも後の家族がそれを知りたいと思ったときには役立つのかも知れない。NHKのファミリーヒストリーのように先代とか先々代がどうであったかを調べようとするときには、何かの手掛かりになるとは思われる。

そういう自分史を本にしたと言って贈られたとき、そのひとの哲学あるいは心の旅路に触れられるなら私は読んでも意味があったと感じるかも知れないが、ちらりと見て自分や家族の履歴・経歴中心の記録あるいは他人からの評価を意識した内容が主体だとほとんど読む気にならないのである。そのひとが何をして来ようが家族がどうしようが、私はあまり関心が湧かないわけである。そのひと自身は書き終えた充足感と達成感で満たされているのにそれに水を差す気はないから、どうだったと問われればすごいですねとは言うのだが、何がとなかなか言えない自分に困るのである。


補足: それなりの著名人の「私の履歴書」_大方読みごたえがある
わが家では日経新聞をとっているが、「私の履歴書」はよく読む。そのひとの考え方、ものの見方などが披歴されることが多いから、大方は読んでそれなりに得るところがある。


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