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  偏見ご免のたわごと編:  No.193
どう見られているかばかり気にするひと_気質ならそれでもよいが 2023.01.12
  最近ネットで自分がどうみられているかばかり気にするひとを論ずる記事を見た。その記事ではひとを魅力あるいは品の観点から論じているのだが、私はそのどうみられているかばかり気にすることの自分に跳ね返って来る悩ましい影響の方を考えてしまうのである。

交流する相手に対し自分がどう見られているかばかり気にして接するとか自分の気持ちを通して相手が自分をどう見ているばかり考えて接するひとははなしが通じないやつと相手に思われるだけで済むかもしれない。しかし普段自分がどうみられているかばかり気にするひとではないひとが自分の負い目を気にして自分が他のひとにどう見られているか気になるようになるとそれだけでは済まないことがある。

私は一時期仕事が評価されず飛ばされたあとひとにどうみられているかという思いにとらわれ苦しんだことがある。そのあと10年近く経って関連部署の長だったひとでその後副社長になったひとにその仕事を評価する言葉を受けたが、その言葉だけで時間が戻るわけではなし苦い思い出はそのまま残っている。何十年も前の若いころのはなしである。

よく言われているが、どう見られているかばかり気にするひとは、他人からの評価が何よりも大事になってしまって一般的には気にするようなことでないことにも過剰に反応する。自分の思いあるいは自己評価に少しでも反することを言われたりされたりすると、人格を否定されたと感じ落ち込んだり過剰に反発したり言ったひととの関係を拒絶したりするということだが、私もそういう感じだった憶えがある。

自分がどう見られるかばかりを気にして、例えば自分の周囲で意識している他のひとが誰かに評価されたりすると、すぐ自分はどうなのか自分の存在は何なのだと思うのである。何かある度に自分の扱われ方を考えてしまうのである。そして周囲の他のひとや評価した誰かを嫉妬したり憎んだりするあるいは自分を苛んで苦しんだりするのである。

仕事であれ何かであれ周囲あるいは他のひとと関係を持たなければならないことになっても、大方のひとは相手の言葉や振る舞いに相手が何を思いあるいはどうしたいかを理解しようとして接する思われる。大方の相手も自分がどう見られるか気にしながらものを言ったり何らかの振る舞いをすることはないと思われる。普通の素直なひとの対人関係では大方相手がどう考えているかをまずそのまま知ろうとするものだと思われる。

しかし相手が自分をどう見ているかと考えながら相手の言葉や振る舞いの意味を考えると、相手がいまどういう気持ちでいるかではなく自分の印象を相手の気持ちと見做してしまうことになるわけである。それで誰かを嫉妬したり憎んだりあるいは自分を苛んで苦しんだりするとなれば、それは自分の心がそうさせていることになる。自分の心の醜さを相手に反射させて自分の心に映し返していることになるわけである。私の経験では、悩みのほとんどはこういうことだったような気がする。


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