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  偏見ご免のたわごと編:  No.275ap
気持ちを汲む_正邪があいまいに  2024.09.22
  2023年10月7日、イスラエルでイスラム原理主義組織ハマスによる大規模攻撃が発生した。そしてイスラエルによる反撃が始まり無関係な市民が死傷するガザの惨状が伝えられると世界中でイスラエルに対する抗議行動が湧き上がったが、仕掛けたのはハマスでイスラエルの子どもや幼児を含む1400人あまりを虐殺し、240人もの人質をガザに拉致したのが切っ掛けである。ハマスはガザの市民に数万人もの犠牲者が出ることは承知の上で今回のテロ攻撃を計画したことは否定できないと思われる。

私はその当時、テレビを見ていてハマスが仕掛けたのにパレスティナへのシンパシーからなのか両者を同一視しハマスのやったことは悪いがやる気持ちは分かるなどと言う中東専門家みたいなコメンテイターの言うことに違和感があった。いろいろな事情を考えればそうする気持ちは分かると言って、悪いことをしたのにその行為を致し方ない面もあると強く咎めない。悪いことは悪いと言わず、悪いことをしたものの置かれていた状況にその咎ありとして、良し悪しの判断を甘くする。あるいは自分がそのものに同情あるいはシンパシーを感じる相手には非難の調子を緩める。

そういう手合いの人間がテレビなどで立派そうな解説などを言って、ものごとの正邪よりもその状況の悲惨さを嘆くあるいはそれを引き起こした気持ちに同調する。そして本質的あるいは根底にある要因や思想の是非について論じない。例えば話し合いで解決しないで暴力的手段に至るのは強い弱いに関係ない。最後は戦争あるいはテロを仕掛けることを厭わない側に非があるわけである。判官贔屓は心情的にはあるとしても、弱い側でも非はあるわけである。

私は過去の経緯あるいは歴史については疎いから、どういう解決策が双方にとってよいかということは分からない。ただ目の前の事件の発端を見れば仕掛けた側のやり方に疑問を感じていたわけである。そしてハマスの幹部は外国にいてガザの惨状に責任を持っていないような状況に不審感を持ってしまうのである。


補足: 優しくものを見る_本当の誠実さがないと
私は仏のように優しくありたいと言っている。だからと言ってどんなときでも誰に対してでもいわゆる優しく振舞うべしと思っているわけではない。私の思っている仏の優しさというのはすべてお見通しのうえでの優しさである。事実は事実として曲げない、うそを言わない、ごまかさない、方便を許さない、ひとにより対応が変わらない普遍的な意味での誠実さがあっての優しさである。

ただ気持ちとして優しい、それも相手あるいは対象の気持ちを慮ってそのときの見かけで変わるような優しさは信頼に値しないわけである。普遍的な優しさというのは厳しいものだが、私はそういう優しさを持った人間でありたいと思ってやって来ている。だがそのときどきの状況あるいは感情に支配され他人に良く思われるような見た目の優しさを追求してしまう振る舞いからなかなか抜けられないのが現実である。


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