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  偏見ご免のたわごと編:  No.040
曽野綾子の本_妻に多大の影響を及ぼしている 2020.11.02
  以下、のろけばなしではある。ある日、妻と食事しながら話していたとき、妻が他人に謝れと迫られて謝ることがあっても、自分では本当には謝っていない。謝れと言った相手を馬鹿な嫌な奴だと思うのは当たり前だよねというはなしをしだした。私は事実でなくても自分がそう思うからお前が悪いと言い募って謝れと言う印象のあるどこかの国のことが頭に浮かんで来て、それはそうだと応じていた。

妻はむかしから曽野綾子のファンで著書のほとんどを持っていたがいまは町の図書室に全部寄付してしまっている。そしてその後は時々出る著作を購入して読んでいるが、曽野綾子も年をとって創作はもう無理なようで、エッセイの類が多いようである。また最近は多分本人は前書きしか書いておらず、既刊のなかから人生訓になるような言葉を編集者が抜粋して集めたような本を出しているようである。

多分妻はそういう本を読んで食事のときに話題を振ってきたようである。私は何の本かと聞いたら、「自分の価値(曽野綾子著・扶桑社刊)」が最近出たようなので購入し読んでいるということである。曽野綾子はもう創作も出来ないので、出版社に儲けさせるために編集者に名言みたいなものを選んで出版させた本ではないかという気がしたが、私も曽野綾子のものの見方については共感するところが多いので妻が読み終わったあと読むことにした。

そして読んでみたのだが、先の話題は<「謝れ」と強制されて謝る人の胸の内>というはなしに関してのことだったようである。また、その本のなかには<脱ぎ棄てた履物を直す・・・・・母のしつけ>というはなしがあって、これはくだらない仕事だと思いながらしている仕事で来た人が台所口に脱ぎ棄てた自分の履物をその家の人が直しておいたら、後日その人から自分の現在の仕事は少しも卑しめられていない、その仕事の意義を感じて素直に受け止められるようになったという手紙が来たというはなしがある。

その家の人とは曽野綾子本人で、母のしつけで身についた「目についたら、人目につかないようにちょっと直しておく習慣」からしたのだが、ひとの気持ちを穏やかにすることを知ったというはなしである。妻もわが家への来客や作業で家の上がるひとがあって、大体は初めての人の場合脱いだ履物が乱れていたら直している。それで聞いてみたら、おばあさんが家で玄関前をきれいにしておくようにとやっていたのを見様見真似で自分もするようになっていたということである。以前そういうことが書いてある本を読んだときは自分も曽野綾子と同じようだったとうれしくなったが、むかしの家では大体がそうではなかったかということである。

他にひとつ特に、私には妻が曽野綾子の影響を受けていると思えることがある。妻は頭がよいとか何かに優れているとかそういう才能あふれる人間ではないが、私としてはある種の品があると思っている。結婚して以来長い時間をかけて磨かれて来たように思っている。結婚以前から曽野綾子のファンでその言葉に共感し影響を受けて来たからかなという気がしている。

そして今回の本に、<「気品」は何によって生まれるか>というはなしがあって、そこに気品は「多分、勉強によって身につく。本を読み、謙虚に他人の言動から学び、感謝を忘れず、利己的にならないことである」と書いてある。いわゆる学校の勉強ではないが、妻は本をよく読み、自分を顧みて勉強したし今もしている。その努力が妻の人柄を作り上げて来ているように思える。妻もたいていのひとと同じように健康を志向し美容に心掛けることに熱心だが、教養をつけ、心を鍛える、という内面の管理についても熱心だったからだと私は見ている。


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