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  偏見ご免のたわごと編:  No.153
安倍元首相の死を聞いて_思い出した過去記事 2022.07.13
  まずは、私が安倍元首相が撃たれて亡くなったというニュースを見聞きしたあとの補足記事である。

「No.141  ウクライナ事態から考える_日本の懸念  (2022.05.10)」の補足として
「補足4: 安倍元首相撃たれ亡くなる_裏があるのかないのか  (2022.07.09)」を書いた。
安倍元首相が、昨日奈良で選挙応援演説中に撃たれ亡くなった。イギリスではジョンソン首相が辞任、日本では安倍元首相が殺された。ウクライナ情勢をめぐってそれぞれアメリカべったりの国に起こったことだが、イギリスは憂国の士側が勝ち、日本は憂国の士が殺されたと見るひともいるようである。
なお、犯人は、母親が統一教会に入れ込んで破産の憂き目にあったので統一教会を恨みその幹部を狙っていたが果たせず、メディア情報などから安倍元首相が統一教会を支援していると思い込んでいたので、矛先を安倍元首相に向けたと言っているようである。


以下は、安倍首相と聞いて思い出した記事のいくつかである。(紹介内容は抜粋)

屋久島方丈記・偏見ご免のたわごと編:
「No.398  テロ等準備罪_ゲバ棒騒ぎ共感派は怖がるかも  (2017.04.17)」
の中で、私は、反対意見をいうひと達について自分たちがそういうことをする気持ちを持っているから恐れているのではないかという疑問を呈している。また、重大事件を発生させないためにはその兆候につながる小さな事柄についても警戒行動をとるのは当然のことだと言っている。
共謀罪というのは、特定の組織に加盟しその組織を活動基盤にした複数の人々が目的や計画を共有してこそ共謀が可能となるのだから、普通のひとにはあまり関係ないと思われる。そして多分いろいろな団体のうちでもテロや組織的犯罪を肯定したりそういうことに共感をもっている活動団体は共謀罪の成立を恐れていると思われる。どんな組織にも属していない一般人は怖がる必要はないと思われる。
重大な被害をもたらすテロや組織的犯罪を防ぐには、危険予知訓練のような訓練を重ねた要員のちょっとした状況・事象からその兆候を見極める感受性が必要となる。重大事故は何百倍もの軽微な兆候に対処しなかったがために発生するとすれば、重大事件も何百倍もの軽微な兆候に対処できなかった結果発生する可能性があるわけである。軽微な兆候を見逃さなければ数少ない重大な兆候を見逃す可能性は低くなる。どういう手法がとられるにしろ何らかの監視的手段は必要で、その程度は国民の生命・財産をテロや組織犯罪から守る効用とのトレードオフの問題であり、国民はそれなりに許容すべきものと思われる。


「No.402  安倍首相憲法改正メッセージに関する感想  (2017.05.15)」
では護憲勢力の主張に矛盾があるということを言っている。そしてその補足記事で私は、憲法改正は国会が発議するのだから、国会で賛成多数になったらあとは国民の判断を仰げばよいと言っている。少数意見を言い募るひと達は国民は望んでいないと言って国民の判断機会を邪魔しているとも言っている。
「補足1: 現行法を超える発議は立法府の責任  (2017.05.15)
現行の憲法や法律にそぐわないという理由で新たな憲法や法律の論議を批判するのもおかしい。国会は行政府ではなく立法府である。法の体系を変革するとか、憲法を変える発議は国会しか出来ないわけである。発議を渋る勢力は国民がどうのこうのと理由をつけるが、国民の代表として必要と思ったら発議すればよいわけである。国民はその適否を判断するのだから、国会は国の唯一の立法府として現行の憲法や法律を盾にして論議を避ける必要はない。
「補足3: 国民が望んでいないと言うひと  (2017.10.07)
憲法改正の話題になったときある党から立候補する予定らしいひと(例えば辻元清美氏)が国民は望んでいないと改正に否定的な態度だった。私は望んでいないというのはそう言う本人の意見なのに、私を含めた大多数の国民がと言う感じでそう言ってしまうところに違和感を感じた。誰がということをあいまいにして国民が望んでいないと言って他の勢力の口封じをしようとしていた印象である。
そもそも国民から負託を受けたのが国会議員なのだから、憲法改正の発議についても負託を受けているわけである。少数の議員あるいは党は国民の負託を受けている割合が多数の議員あるいは党より少ない。それなのに少数の議員あるいは党への負託をもって国民が望んでいないというのは理屈にはならない。私なら多数の議員あるいは党が改正を目指しているならば、多数の議員あるいは党に発議することを国民は負託したと理解する。
」 

屋久島暮らし残照録・偏見ご免のたわごと編:
「No.026  安倍首相辞任_病気悪化が理由だったが  (2020.08.31)」
では、辞任に至る裏には何かあるのではないかという私の懸念を書いているのだが、その補足では、いろいろな懸念に対応できる勢力を考えれば今は自民党だが、なぜそう思っているかを書いている。
「補足: 自民党_United Parties of Jimin  (2020.09.09)
私が思うに派閥はそれなりの党みたいなもので自民党はそれらの連合体である。派閥がだめならどこの政党の党内グループもダメということになる。派閥とか族議員とか言って大きな政党の問題点だと指摘する向きがあるが、それはただ貶めるための方便に過ぎないのではないか。派閥は連合政党の中のそれなりの政策を持った一政党だと思えばよいのではないかと思われる。派閥の中で頭角を現し派閥間の競争の中からトップが決まって行くのはそれなりに妥当な仕組みのように思える。また族議員についてはあるテーマ専攻の議員として育成された専門家だと見ればよいのではないかと思われる。人材が豊富な連合政党でないと専門家的政治家は育てにくいと思われる。

「No.083  赤木ファイル開示_政権批判側の責任にも跳ね返ったか (2021.07.05)」
では、赤木氏が現場として(森友学園を)厚遇した事実はないと書き残しているという記事を見ての感想を書いているが、その末尾に次のように書いている。
「文書には、赤木氏が「現場として(森友学園を)厚遇した事実はない」と明確に記しているということである。
赤木さんの奥さんも政権批判側の誰かの後押しであるいは誰かに踊らされて赤木ファイルの開示を求めて来たのだとしたら、現場として(森友学園を)厚遇した事実はないのに、それがあったと言い募って首相の関与を追求し続けた政権批判派が自分の夫を自殺に追い込んだ一翼を担っていたことを知って愕然としたのではないか。もし奥さんが首相夫人の言葉があったということで首相の関与を疑っていたのだとしても、赤木氏本人は現場として厚遇した事実はないと言っている。赤木氏が真実を言っているなら奥さんの疑惑は否定されるわけだから、自殺の真相究明が皮肉な結果をもたらしたことになる。」


「No.139ap  不正を追及する手法_煽られないよう注意が肝要  (2022.06.13)」
という記事で、屋久島の行政あるいは議会が地元ニュースブログの取材を拒否していることについて、メディアの在り方あるいはその振る舞い方に不信感を持ち警戒しいるのではないかと書いている。そして私はこういうことで警戒されているのではないかと、その訳を探ってみた感想を書いている。なぜ安倍首相の事件でこれを思い出したかと言えば、犯人が安倍首相が統一教会とつるんでいると思い込んだのは、メディアのはっきりしない事実をもってひとを攻撃し罪びとをつくろうとする姿勢の影響が大きいのではという気がするからである。
以前、フェイクニュースやデマ記事の氾濫する様子が気になって報道の在り方について批判的な意見をネットで探してみたことがある。印象に残ったものを書き留めておいたのだが、屋久島の行政あるいは議会のひと達もそういう思いを持っているのかも知れないと思い挙げてみる。ただし私がそう思っているだけで当たっているかどうかは保証の限りではない。
1. 事実は袖すりあっただけなのにあとは想像や憶測で本当のようなストーリを描いた記事を書いて最後にちょっと責任を回避するための疑問符を付け、本当だと思わせるように印象操作する。世間でそれは噂あるいは真実として尾を引き広がる。
2. どこ社会にも極めて低い確率ながらヤバいやつはいて、よからぬことでも話題にしヒットさせられるネットの世界は情報工作の拠点となる。
3. 被害者意識を持っている人たちが割と簡単に自分の生活の不満をダイレクトに社会運動に結び付けてしまったりするが、ネットは不安や不満を増幅する装置でもあり、そういう社会問題を焚き付けて煽り、不信感を社会や政府に対して植え付けることも起き得る。
4. ジャーナリズムは不正な偽善である。ジャーナリストを名乗るのは「私は浅はかです」と言っているようなものだ。報道の自由は、国民の「知る権利」に奉仕するものであり、国民を扇動するために保障された権利ではない。
5. 大方のジャーナリストあるいはメディアの仕事は真実を壊し公然と嘘をついたり中傷したり判断を誤らせたりする。特定イデオロギーにへつらいあるいは醜聞を煽って、それで得をする邪悪な人間たちに国家と国民を売り渡すことである。邪悪な人間たちに踊らされることを自覚しているならまだ救いはあるが、自分の思想信条に沿うことが正義だとして自分の報道内容に責任を持たない輩は救い難い。



補足: 
安倍元首相の国葬_祟りを恐れて神として祀るに似る
2022.07.21
かつて私が読んだ梅原猛の本に、そのむかし無念の思いを持って非業の死を遂げたひとの祟りを恐れて神社を造りそのひとを神として祀ったとあったような記憶がある。
安倍元首相の功罪の評価はいま定まっていないが、首相在任期間歴代最長にしてまだ活躍が期待されていた中、憂国の思いを持って非業の死を遂げたということをもって、私は国葬とするに賛成である。
基本的には時の政府が判断し説明すべきことではあるが、今後政府が首相経験者の国葬を考えるときには、安倍元首相より在任期間が長く、愛国・憂国の言動を評価するに足りかつ非業の死を遂げたすなわち早世したひとということが基準となるかも知れない。
以上半分冗談。
(追: 2022.09.05 法律に国葬の定めはないそうである。国葬という名の葬儀を内閣が決定したということのようである。イヌにネコという名を付けてイヌをネコと呼ぶに似ているようである。)


(関連記事)
屋久島暮らし残照録・偏見ご免のたわごと編:
  No.164  いわゆる旧統一教会問題_政党値踏みで主に自民が工作対象  (2022.09.12)

  No.167  安倍元首相の国葬_関連記事紹介  (2022.09.25)
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