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  偏見ご免のたわごと編:  No.164
いわゆる旧統一教会問題_政党値踏みで主に自民が工作対象 2022.09.12
  いわゆる旧統一教会の問題だが、論議を政権批判や政権打倒の道具にしてはいけないと私は思っている。国を自分の思い通りに動かしたいがために洗脳した信者を政治家に近づかせ、本人の気づかぬうちに取り込んでは思い通りに操る。それに引っかかるのは悪いが、教祖の言いなり宗教の信者であることを隠してやられれば、普通それなりに生きている人間は誰でも騙される可能性はある。

私は教義云々より以前にまず新興宗教など信者獲得に懸命な活動をする者や団体に近づかれてもその雰囲気で感覚的におかしいと思ってしまう方である。また私も人生について考えることはあるが、そもそもひとに考えを強制されるのが嫌いな性格だから、いろいろな宗教の教義は生き方に役立つ言葉の良いとこ取りで聞いているだけである。そして教祖の言いなりになるよう求める宗教やその信者に近寄られると警戒して距離を置くよう気を付けているしそういう宗教に帰依する気は全くない。多分ほとんどの政治家もそうではないかという気がする。ただ旧統一教会の方が一枚上手で相手の利用の仕方に長けていたような感じがする。なにしろ国連や米大統領まで取り込んでしまうほどやり口が上手かったことがそれを証明しているように思える。

今回特定の政党・自民党にいわゆる旧統一教会の手が多く及んでいたのが問題視されているが、他の政党にあまり触手が伸びなかったのはそれらの政党には国政に影響を及ぼすほどの力はないと値踏みされていたからである。それなのにお声がかからなったそういう政党がそれを自分たちの清廉の証として政権や与党の批判や政権打倒を主眼に活動を展開しようとしても、それは滑稽の極みである。政治家や政党の責任追及は相手にされなかったうっぷん晴らしでは困る。本質的議論をしてもらいたいものである。

まず議論するに当たっての問題は、宗教とは、信教の自由とは、何を以ってそう言っているかということをはっきりしておくことが必要な気がする。邪悪なものがその思いを教義にこじつけて宗教を装うことがあっても見極められないのはなぜなのか、そもそも宗教とはということが私は気になっている。

それはそれとして、いわゆる旧統一教会の取り扱いやその活動による被害の防止・救済そして政治工作への対処はいまある問題である。宗教とはの定義はよく分からないが、私は内心何を思おうが自由であり宗教もその範疇ということであるならば、その表に出る行為や活動には公共の福祉的観点などからもそれ相応の社会的な制限はあってしかるべきであると考えている。それはルール化の対象になる。法的にはもとよりわが国で求められる行動規範、社会通念などにより問題となる行為・活動は禁止あるいは制限されて当然ではないかという気がする。そういうルールに抵触するならばそれは宗教活動ではないしそれをなさしむ内心の思いも宗教と言えないわけである。そういうことが明示的になることを期待している。


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