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  偏見ご免のたわごと編:  No.201
LGBTあるいは同性婚_個人的見解とポリティカルコレクトネス 2023.02.09
  2月3日に記者からの取材に対してある首相秘書官が「見るのも嫌だ」などの発言で更迭された。秘書官の発言は同性婚について「社会が変わってしまう課題」と述べた首相の国会答弁で首相自身の人権感覚が疑われる事態が切っ掛けだったようだが、8日の衆院予算委員会での首相答弁で、同性婚制度の導入は国民生活・家族観など国民に幅広く関わる問題だから慎重に議論をという意味で言ったと説明したようである。

以上の話題に関連してあるひとは、LGBTが嫌いだったら秘書職についてはいけないのかと疑問を呈したツイートをしていた。公人はみなLGBTかあるいはそれを好きな人じゃないといけないなんてことはないだろう。好きだ嫌いだは個人の自由であって、問題は政治的にLGBTに関する何を法制化するかだろうということのようである。

またあるひとは野党の一部のポリティカルコレクトネス的主張に疑問を呈してか、G7で同性婚を認めないのは日本だけというが、G7のどの国も認めていない外国人参政権は認めろと矛盾したことを言っていると揶揄するツイートをしていた。他国をがやっているからやるべしではないだろう。ちゃんと議論をしろと言うことのようである。

私は、結婚は男女の間でのことであると考えている。同性婚をLGBTのひと達が本当に求めて活動しているのかどうかよく分からないのだが、もし求めているならそれは止めた方がよいと思っている。結婚という言葉にこだわってそれを表に出して活動するから、私個人としてはどうしても違和感を禁じ得ない。男女が結婚で得られる権利のうち同性間でも認めて欲しい権利はこれこれあるからそれを法律で認めて欲しいと主張するなら全く問題を感じない。結婚だ結婚だと言い募るからおかしいことになるのではないかという気がしているわけである。

私は同性愛や同性婚について、いままでもいくつかの記事を書いてきた。それらを以下に内容を抜粋しながら紹介しておくことにする。

屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編:
No.331 やはり不自然なこと
(2010.02.08)
イギリスで同性結婚が法的に認められたということで男性有名歌手の同性結婚が報じられた。私は同性愛性向を持った人たちに社会的権利を認めることには反対しないが、同性同士の組み合わせは本来不自然な組み合わせであることをはっきりしておいたほうがよいと思っている。

屋久島方丈記・偏見ご免のたわごと編:
No.105 生き物としての事実とひとの約束事
(2012.05.28)
オバマ米大統領が今月初旬に放送されたテレビのインタビューの中で、かつての同性婚への慎重な姿勢を変えて、同性婚を支持すると表明したそうである。現職米大統領の同性婚支持表明は初めてのことで、再選対策との見方がないわけではないが、賛否半々の米社会での問題のみならず文化的影響もあることから大統領としての発言の意味は大きいとして話題になった。私のこの報道を見ての感想である。
同性婚を認めるということは政治的事実と上記のような生物学的事実を一致させるもののようだということである。性的結びつきという生物学的事実と財産相続などを保証する社会的結びつきの政治的結婚が新たな結婚という政治的事実として統一されることを意味することになる。私はそういう新たな結婚制度が出来てしまうとしたら、異性と同性、同じことばかりではないだろうから異性婚と同性婚とのあり方規定は今後の政治的課題となるのではないかと思っている。私は男女の結びつき以外をいわゆる結婚と呼ぶことが不自然だという思いが消えないので、性的結びつきが異性同士の場合を従来通り結婚と呼び、同性同士の場合を「これこれ」と呼び名を変えて新たな同性同士カップリングの法的権利を定めていくのが良いかなと思っている。

屋久島暮らし残照録・偏見ご免のたわごと編:
No.065 同性婚認めないのは違憲とか_3月17日札幌地方裁判所の判断
(2021.03.22)
私が婚姻とはどういうことかと問われれば、広辞苑に出ているという「婚姻(結婚すること)」の定義と同じように思っている。つまり、「婚姻」とは「夫婦間の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で、その間に生まれた子が嫡出子として認められる関係」ということである。 日本の憲法や法律はそういう定義に基づいて作られている。私はそう思って今に至っている。
私がいま思っている感じでは、他国の状況を見ればいわゆる同性婚はあくまで地位や財産の継承の道筋をつけるために行われているようである。私はそうであれば、いわゆる同性婚をしたとした場合、何と何をどうして欲しいのかはっきりさせ、両性の間の婚姻とは別の手続きと権利・義務を定めればよいのだという気がする。両性の間でなされる婚姻と同性の間でなされるいわゆる同性婚は違うものだから、区別しても法の下で不平等ということにはならないだろうと思われる。

屋久島方丈記・偏見ご免のたわごと編:
No.105ap LGBTQの放送を見て私の感想_アプローチされた経験
(2022.12.09)
私の性的志向は自分は男性だから相手は女性でいわゆるノーマルである。人間男女大体がそういう志向だからそういう人間に違った志向の人間がアプローチした場合相手はどう感じるのだろうか。私の場合は経験から言ってあまり良い感じはしない。何を言いたいかと言えば、違う性的志向の相手にアプローチしなければ何も問題ないのだが、少数のLGBTQのひと達が違ういわゆるノーマルな性的志向の相手にアプローチするところに偏見が生まれたのではないかということである。私はアプローチされなければ、カミングアウトされても何の問題もなくただ自分とは違う志向の人間だと意識するだけである。


補足1: 
体は男性で心は女性_女風呂に入れるなら問題
2023.03.06
普通の女性が、体は男性で心は女性が女風呂に入ってきたら嫌だと言ったら偏見でLGBTの存在を嫌悪していると非難されているようだが、LGBTへの理解増進を図ろうとするならば何でもありではないという問題点指摘の一つとしてとらえないといけない気がする。嫌なものは嫌なのであって、LGBTのひと達だけがよければよいというのではLGBTへの理解は進まないと思われる。

補足2: 
性的少数者団体が会見_LGBT法は不要
2023.05.05
5月1日のニュースを見ていたら、「白百合の会」の森奈津子代表が会見で「LGBT活動家は当事者の代表ではない。一部の活動家だけではなく、当事者のリアルな声も報道してほしい」と訴えたということである。性的少数者に関する法整備を提言する「LGBT法連合会」などは理解増進法の制定を求めているが、彼らは「LGBT活動家」であってLGBTの当事者ではないということのようである。活動家は自分たちの頭にある考えを絶対だと思って主張し社会の現実と乖離していても顧みないある種のリベラルと似ているのかも知れない。

補足3: 
性機能はもとのまま性別を変える_最高裁の判断は
2023.10.25
性同一性障害の人が戸籍上の性別を変更するのに、生殖能力をなくす手術を事実上の要件とした特例法の規定が憲法に反するかどうかが争われた家事審判の弁論が27日、最高裁大法廷で開かれ、手術なしでの性別変更を求めている申立人側は「規定は性別のあり方が尊重される権利を侵害し、憲法違反だ」と主張。大法廷は年内にも憲法判断を示す見通しだそうである。
私は身体が男性機能を持っていれば男性、女性機能を持っていれば女性だというのがよいと思っている。身体が男性で心が女性だから自分が女性だと言われてもまた逆でも外から分からないのでは気持ちが悪い。実際の身体と自分の心に思う性別は違うならそういう人間だとしてありのまま生きて行くしかないのではないかと思われる。要は差別なくそういう人間が生きられる社会になればよいのではという気がしている。
(追: 231025午後 トランスジェンダーが戸籍上の性別を変えるのに、生殖能力を失わせる手術を必要とする「性同一性障害特例法」の要件が、憲法に違反するかが問われた家事審判で、最高裁大法廷は本日25日最高裁の裁判官15人の全員一致の判断で、要件は「違憲」とする決定を出したということである。 変更後の性別の性器に似た外観を備えていることという外観要件についてはについては憲法適合性を判断せず審理を2審に差し戻したそうである。
外観を整えるにも手術が必要な時もあるというはなしもあるから差戻審でそれも違憲となるかも知れない。それで、身体の性機能と自分の思っている性が同一でないとき心に合わせ性別を変更することになると、身体の性機能と性別が異なる人間が出来ることになるが、私としては身体の性機能の有無・外観で大体判断するから外観と異なった性別の人間だとなかなか認知しがたい気がする。他人から間違われようが差別や偏見のない社会にすればよいので自然の感覚に合わない性別変更はない方がよい気がしている。ありのままで生きられればよいのではないのかという気がするから、本当にトランスジェンダーが求めているのは別にあるのではないのかと気になっている。)



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