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  偏見ご免のたわごと編:  No.225
活動家と聞くと_まず自分の偏見を通して見る癖  2023.05.15
  5月1日のニュースを見ていたら、「白百合の会」の森奈津子代表が会見で「LGBT活動家」は当事者の代表ではない。一部の活動家だけではなく、当事者のリアルな声も報道してほしい」と訴えたということである。性的少数者に関する法整備を提言する「LGBT法連合会」などは理解増進法の制定を求めているが、彼らは「LGBT活動家」であってLGBTの当事者ではないということのようである。

私は活動家と聞くと、世の中の不条理に対して自分の頭で考えた理想の姿が絶対だと信じ切ってそれを主張し意見の異なる人間を攻撃するタイプをまず思い浮かべてしまう。不条理を正していく道は多分幾通りもあるし、自分と異なる意見も一つの道を示しているかも知れない。それなのに自分と意見が異なるからとそれを言う人間の攻撃に走るのは料簡の狭い人間のすることである。それはただ自分の思いの達成感を求めて活動しているのであって、目的を見失っているわけである。

不条理があるならその不条理をどう正していくかという具体的な解決策の実現のために活動すればよいわけである。そして指摘する問題点が的を得ているか、そしてまた解決策も的を得ているかの評価は他の人間に委ねればよいわけである。私がニュースを見て感じたのは、それが当たっているかどうか知らないが「LGBT法連合会」はいわゆるノーマルのひと達で彼らがこうあるべきという姿を描いて活動しているのではないかという気がするということである。当事者のひと達が何かがこうであって欲しいと思っていることと違った主張をしている、極端に言えば自分たちが主張する正義に酔っているのかも知れないという気がしたわけである。それが当事者側が彼らは活動家であって当事者ではないと言う所以ではないかという気がしたわけである。

当事者を支援したいならば当事者がこうであって欲しいと思うことそれ自体を支援する活動をしたらどうかと思うわけである。私は活動家と聞くと、それで飯を食っている者という偏見を持っているのかも知れないが、活動が生きる術に堕して本来の根源的問題の解決から離れて活動すること自体を目的にしている者たちかも知れないと疑ってみる癖が付いている。そして自分たちの頭にある考えを絶対だと思って主張し社会の現実と乖離していても顧みない活動家はある種の似非リベラルと似ているのかも知れないなどと思ってしまうのである。以上、今回当事者側が活動家を批判するニュースを見て、私はまずこんなことを思ってしまったというはなしである。


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