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  日誌編:  No.331  
本・DEATH_生きている人間が死について考える 2024.09.23
 
私の母は58歳で亡くなった。私は血液型が母と同じだったりして同じような年で死ぬかもしれないという思いにとらわれ、私には21世紀は来ないと思っていた時期があった。そのころから私は死について意識して来たが、いま私は平均寿命を超える年になってさらに死を意識するようになっている。そしてこの年での平均余命は10年を切っているのだが、年をとって来ると体感的には年月の流れは速いから若いときに比べ余命10年はかなり短く死はすぐそこだと余命宣告されているような感じになるわけである。

それでか本のキャッチコピーの「なぜ、余命宣告をされた学生は、最後に”命をかけて”、この講義を受けたのか!?」という文言に惹かれて『DEATH イェール大学で23年連続の人気講義 「死」とは何か[日本縮約版](シェリー・ケーガン著・柴田裕之訳・文響社)』を購入してみた。この本も哲学的らしい冗長な説明が続くので私は苦手である。以下の感想もまたその類の本同様箇条書きでもっと端的に書いて欲しいと思いながらざっと見で読んでのものである。


本の言うところを自分なりに要約すると、人間はたしかに驚くべき物体だが有形物という意味では機械と変わらない。肉体が死ねばその人は消滅する。それが著者の考えである。そして死が私たちにとって悪いのは私たちが死んでさえいなければ人生がもたらしてくれただろうものを享受できないからだが、そのなかで自分が望むだけ生きたと感じられる人生を生きるしかない。つまり――人は必ず死ぬ。だからこそ、どう生きるべきか――ということになる。大切なのは、みなさんが自ら考えることだよということのようである。よく考えて自分の人生に納得して死ねということのようである。

私の感想としては、生きている人間が死について語る場合、その人間がどういう風に思っているか以外のはなしは出てこない。先人が死について語っていたってその人間が死について何を思っていたかということになるわけである。そこが限界である。著者は自分としてはこう思っているということ、そしてそれが自分にとってはこういう理由で当たっていると思っているということを言っているわけである。

私は死とは身体の機能がすべて停止したときだと思っている。人格機能(いろいろ考える自分)も身体機能の一部で身体機能と人格機能が別個に存在しているわけではない。脳死は身体機能のうちの人格機能が停止した状態だと思っている。それだけではひとは消滅しない。人格機能を含む身体機能がすべて停止して蘇生しないことが確実になって人間は死んだことになる。肉体が死ねばそのひとは消滅するとはそういうことだと思っている。

死んだら自分は消滅する。だから自分の人生を生きている間により良いと感じられるようによく考えて生きよという当たり前のことを本は述べているのだが、「なぜ、余命宣告をされた学生は、最後に”命をかけて”、この講義を受けたのか!?」。それが気になっているのだが、程度の悪い私にはその答えがどこにあるのか分からなかった。その学生が講義から何を得てどう考え自分の人生にどう納得して死を迎えたのか。その学生の残したメモなどないのかと気になっている。


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