「死すべき定め(アトゥール・ガワンデ著・原井宏明訳・みすず書房)」を読んだ。ある読者評では死は何ぞやというような哲学的内容ではなく死んでいく実際はどうなのか、どうあるべきなのかというようなこの本の方が死を自分のものとして感じている高齢者には向いているとあった。それで購入し読んでみた。
この本の趣旨は私の感じたところ、序にあるが以下のようなことを実際例で問題提起しているようである。ひとは必ず死ぬ。死すべき定めにある。もう何をしても甲斐なく死に至ると分かっているとき、残りの日々をただ延命治療で病人が生きていることを感じられなくなっても生かす医療がよいのか。老いて死ぬのが定めなのだから、病人がそれなりの幸せを感じて死に行くようにしてあげるのが老人医療なのではないか。ひとの運命を医学や技術、そして医者や家族の支配下に置いて病人の苦痛を増していやしないかというようなことを考えようということである。
内容的には実際例を出してこういうことがある、こういうこともあると書いてあるわけだが、その記述がいろいろな周辺状況のこまかなイントロのある小説風な冗長な記述で読みにくい。ある他の読者評では著者の父親のケースが出て来るまではすんなり読む気が起こらなかったというのがあったが、私には本文は全体的に冗長で早くあるいは簡潔に言いたいことを言えという感じだった。それで言いたいことは何かと読み飛ばしながら筋立てだけでも分かればという感じで読んでしまった。
だから私は本質を感じていないかも知れないが、何しろ読みにくい本である。これこれこういうことがある。これは問題だ。こういうふうに考える必要もある。などとすべてを簡潔に記述すれば読者の時間を無駄にさせない。それで趣旨を十分伝え問題提起が出来る新書版が出来るのではないかというのが私の読後感である。訳者はそういうエッセンスを新書版ダイジェスト本にして出せばよいのにと思ってしまった。
読後、私が思い出したのは認知症の研究第一人者が認知症になった話である。自分が認知症になっていままで自分の勧めていたことが誤りだったと分かったと言ったりしている。それを聞いてこの本に関連して思うのは、死に至る病を得た患者に苦痛があっても何が何でも少しでも生きている時間を伸ばす治療をしようとするのがいまの医療のようだが、それに執着している医師が病を得てそういう死に至る初めての経験を自分ですることになったときどう考えるかというようなことである。
高齢になって死を自分のこととして考えるようになっている私としては、自分が嫌だと思う治療、多分何が何でも少しでも生きている時間を伸ばす治療をすることは間違いだったと思うのではないかという気がする。少し死期が早まっても安らかな死を迎えられるような治療を望むのではないかと思われる。
ところが自分が死にそうなっている医師の多くは何が何でも生きている時間を伸ばす治療は間違いだと言わないで死んでしまうから、残って生きている何が何でも少しでも生きている時間を伸ばす治療をしようとする医師の世界の中で少し死期が早まっても安らかな死を迎えられるような治療が望ましいということにならないのだと思われる。
実際は苦痛に苛まれながら最期を迎える患者の姿を見ている医師本人たちは何が何でも生きている時間を伸ばす治療は間違いだと知ってはいると思われる。現に平穏死を迎えられるように医療をしている医師もいるわけである。平穏死を勧める本も出ている。しかしそれは少数派で、多くはいまの医師の世界ではそれを言い出せないのかも知れない。
医師相手のアンケートで他人には抗がん剤治療を勧めても自分の家族には勧めたいと思わないというような結果を見た記憶がある。自分の気持ちに素直になればそういうことなるのだと思われる。しかし自分や自分の家族などでない他人には、苦痛を与えることもやむなしの医療をしているとしたら悲しいことである。
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