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  偏見ご免のたわごと編:  No.368
町広報の訃報欄_死亡人数と年齢を見る癖  2025.03.24
  何年か前から月一回配られる町の広報を見ているとき訃報欄の人数と年齢を見てはわが身を振り返る癖がついてしまった。私の年齢より上のひとたちの比率、それは下のひと達の比率の裏返しでもあるが、自分の年齢より若くして亡くなったひと達の比率が多ければ、いま自分は平均より死ぬ確率の高い範疇に入るようになってその程度はこれくらいなのかなどと考えるわけである。

私は母が若くして亡くなったので自分もそんなに長く生きられないのではないかという思いにとらわれていた時代があって、子どもには自分のやりたいようにやりたいなら親をあてにせず早く自立してもらいたいと願って来た。そしていまそれは果たされているのだが、私はと言えば当時そのくらいしか生きられないかと思っていたよりもかなり長く生きて来られていまに至っている。

そして思うのだが、あとどれくらい生きられるのだろうか、いまどれくらいの時期にいるのだろうかと気になるわけである。時間経過は体感としては早い。体調がよくなかったり身体中のどこかが痛かったりで自分が衰えて行っている実感はかなりある。そしてこれからどのように成って行くのか、それもどう死に向かって行くのか、身体的に気になるのはもとよりだが自分がどう死を受け入れるようになって行くのか気になっている。

そしてそういうことを毎月意識させられるのが広報の訃報欄なわけである。それを見るとき自分はいまこれくらいのところにいるのだなと思うわけである。でもあまりそういうことを考えてばかりいると毎日が楽しくないから考えるのは見たときの一時である。いまのところ切羽詰まった感じはないからか、いずれ死ぬと分かっていても死について納得する感覚あるいは意識が湧いて来ないのである。


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