私はこの隠しページで以前何ヶ所かで、「お見通しながら人に優しいという仏の性質を身につけたい。」とか、「自分の体験では、悩みの多くは自分が人にどう思われるかを考えることによる。」とかいうことを言った記憶がある。今回文芸春秋10月号の「いのちの悟り-般若心経と私-」(柳沢桂子・生命科学者-長年わけのわからない病に苦しんできた)を読んでいて、そんなことを自分が言っているということを思い出したのである。
「いのちの悟り」では、生涯の大半を病に苦しんだ著者が、その悩みを乗り越えようと宗教的価値観を学んだ経緯と般若心経の心訳に至る境地について述べられている。
まず、橋本凝胤師の「人間の生きがいとは何か」(講談社現代新書)を読んで自分は「他者との対比や世俗的な評価によって生きるのではなく、自らのうちに生きる」という価値観を接し、その道を進むべきだということがわかった。
その後エックハルトの「神の慰めの書」、焼烏敏の「歎異抄講話」(ともに講談社学術文庫)を繰り返し読んで、キリスト教にも仏教にも共通して「神の前に己を無にする」という価値観が説かれていることを知った。
そして、いろいろなキリスト教や仏教の本を読み大いなるものの存在を理解しようとしたが、神を我がものとして掴むことができず、ある時期にめぐり合った牧師にそれを訴えると、ヒトラー暗殺計画に失敗し処刑されたディートリッヒ・ボンフェッファーの「ボンフェッファー獄中書簡集」(新教出版社刊)を紹介された。
その本にある教えには、「われわれは-タトエ神ガイナクトモ-この世に生きていかなくてはならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。・・・・・神の前で、神と共に、われわれは神なしで生きる。」とある。神が存在しなくとも、自らを超えた大いなる存在を感じて自ら生きるというその教えの虜となった。
仏教に限らず多くの宗教は、自我や欲望といったものに執着しないようにと教えている。物欲、金銭欲、名誉欲といった欲望は自分が欲しがらなければよい。しかし自我を捨てるとはどういうことか分からない。「般若心経・金剛般若経」(中村元ら解説・岩波文庫)に出会って10年間繰り返し読んで、読むたびに少しずつ理解できるようになっていった。
人間は自己と非自己を区別して生きなければならない。それは自己と対象物というように、世界を二つに分けて見る意識を持っているということである。それが自我である。それは頭の中での現象である。そして現実と頭の中の認識の差が悩みのもとである。ありのままに生きるべし。しかしそれはどう生きることか、自我を捨てるとはどういうことか分からないでいた。ところがあるとき電動車椅子で散歩中同じ年代の美しい女性に優しい声をかけられて、憐れまれているのかとそのことに反発を覚えた自分を突き詰めていって、自我を捨てるということはどういうことかを、悟るのである。私がいなければいいんだ。
その悟りを私の受け取り方で表現してみる。他から見られている自分を意識する自分がいるから、いらぬ悩みや怒りなどが自分の頭の中に作り出され思いに苦しむ。他人がどう自分を思っているかあるいは評価するか、そう思う自分がいなければ苦しむことはない。自我を捨てるとは、他から見られている自分を考えない自分になることである。
上記のように私は受け取った。そして少し通じるところもあるかと、この隠しページで以前に言ったことを思い出したりしたわけである。人が自分をどう思っているかとか、根拠もない噂を流されているのではとか、下らぬことを気にすることからいまだ脱却できない私が、反省を込めての読書紹介であるが、理解が浅いかもしれない。
補足: 悟ること (H17.10.24)
ところで、悟るということについてである。三十何年か前のことだが、58歳で母が亡くなる数日前、母が改まって「ありがとう」と言った。自分の病が何であるかを知ってから亡くなるまでに2年弱の月日があったので、その間母はまだそんな年でもないのになんで自分がと悩み苦しんだものと思われる。そして最期が近づいて来たとき「ありがとう」と言った。そして世間でもこういうことはよく聞くはなしでもある。
そのことについて上記の読書紹介を書いていて思ったことだが、母は悟ったのではないか、人は誰でも死を前にして考える時間があれば悟りの心境に至るのではないかという気がしたのである。人間は死を目前にせずともいろいろなことに悩み苦しむ、そしてそれから逃れられるような価値観に生きたい、悟りたいと願う。その努力は大事である。だがそれで悟ったつもりの悟りも頭の中のことである。その悟りと同じだったら素晴らしいことが、本当の悟りは死を目前にしたときそれが必要な人には誰にでもくる気がしたのである。