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  偏見ご免のたわごと編:  No.316
石丸伸二氏についての感想_ひとの意見の初めは感情  2024.07.19
  東京都議選で注目を浴びた石丸伸二氏についていろいろ批判が言われている。私の一番印象に残ったのは、自分の言っていることが正しいと思っていてそれに同調するはなしには反応が速いが、自分の思いとは異なる意見については自分の思考法に一旦変換して理解するための情報を得てから反応する傾向があるのではないかという見方である。そしてそれが言われている独特の話法のもとになっているのではないかということらしい。

そしてそれが当たっているならば、私は自分が正しいと考えていることを通してしか判断しない感じがして、一定の自分の信奉する思想が正しくて、他の見方による意見にはなかなか理解を示さない、頭で考えたことに現実を合わせようというような傾向のひとではないかという気がするのである。何か共産党に感じている違和感みたいなものを感じてしまうところがある。

人間が集団で住み暮らすようになった初めは各人自分で感じ思ったことに基づいてそれぞれ仕切りたいと思って動いてみたのだが、各人がそれぞれ自分の思いを主張していたら集団では収拾がつかない。それで互いに妥協して共通して理解出来るルールを作って来たのではないかと私は想像している。そしてそういう理解をしていく過程において個人レベルでの自由と社会的ルールの適度な共存が図られて来たと思うわけである。つまりはひとの社会的な行動であってもすべては個々人の感情から発しているわけである。

それなのに自分以外の見方による意見にはなかなか理解を示さず自分の頭で考えたことに周りを従わせたいあるいは現実を合わせようとばかりしてしまうと、いままでのみんなで妥協して共通して理解出来るルールを作り上げようという感情の基礎が揺らぐことになる。頭で考えれば誰も反対できない正論を一方的に主張してばかりでは、それに違和感を感じる他の見方をしているひと達から見れば、互いに妥協して共通して理解出来るルールを作る以前の状況に逆戻りしようとしているように見えるわけである。

私があるテレビのトークバラエティ番組に出ていた石丸氏を見たところでは、自分の考え方の正しさを押し通し他のひとの疑問や意見を自分の考え方に照らし解釈し自分の考え方で対処して問題ないとして自分の正しさを言い募るようなところが印象に残った。他のひと達の疑問や意見のそのもとになっている違和感すなわち感情について理解しようとすることなく自分の考え方の正しさで他を裁くような人間に見えてしまったわけである。私は石丸氏の正しいと考えることやその主張の仕方に他のひとの感情を汲み取り説得して行こうという優しさがない気がして、「そこに愛はあるのか」というあるTVコマーシャルのキャッチフレーズのような違和感が残ってしまったわけである。


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