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  偏見ご免のたわごと編:  No.282
若者の政治離れ_社会の倫理崩壊  2024.02.12
  日本維新の会・音喜多駿参院議員が1月26日の「朝まで生テレビ!」で、若者はなぜ政治に興味を持たないかの話題のとき政治の話がおもしろくないからとして、その番組自体についてみんな話をさえぎる、みんな人の話を聞かないで怒鳴り合ってワーワーやってるが怖い印象を与える。もっとフレンドリーにそして人の話を最後まで聞くとか、丁寧に対応するとかしないといけない。政治の世界もそうではないから興味を持てないというようなことを言っていたという記事を見た。

私はかつて国会の論議を見て子どもにはいじめの見本みたいに見える部分があるのではないかと言ったことがある。なんか怪しいと言ってそうではない証拠を出せと迫るやり方は私から見るといじめの手法そのものに見えたからである。そういう議論の中身はそのときどきのものだからそれについてはいまは言わないが、音喜多氏の言っている論議する態度についてもむかしから嫌だなと思って見ていた。

攻撃的に声を荒げ追求したり感情的感覚的決めつけをしたりするのは劇場型国会での議論や追及の定番みたいになっているが、政府をして自分の意見を受け入れて何らかの改善方向へと導きたいのならば、もっと穏やかになぜ自分たちの考えが役立つことを丁寧に説得する論議のやり方が出来ないのかと不思議に思っているわけである。

その以前からあったかも知れないが、そういうことに関心を持つようになってからの私の感覚では辻元清美氏がその元凶のような印象を持っている。私ならそういう攻撃的態度での言辞を浴びせられれば反発意識が邪魔をして言うことを聞く気にならない。人間なら大体そうではないかという気がする。そういうことは与党生活が長かった小沢一郎氏は分かっている。だから小沢氏の論議の穏やかな口調はそれを反映していると私は見ている。

私はテレビのバラエティ番組のにぎわし役の田島陽子氏みたいなフレンドリーな態度で人の話を最後まで聞かず丁寧に対応もせず自分の言いたいことだけ言い募る論議の仕方が大嫌いである。国会がテレビ受けをするそのとき一時のパフォーマンスに毒されない納得性に優れた論議をすれば若者あるいは国民の政治に関する興味の持ち方も変わるのではないかという気がしている。

いま社会は上から下まで自分だけあるいは自分達だけが良ければあるいは儲かれば良いという風潮に毒されている。最近見た武田邦彦氏のネット記事では近年の出来事を挙げて日本社会における倫理崩壊の深刻さを論じて心を持たない人間が多くなっていることを嘆いていた。例えば河合法務大臣の犯罪、逮捕、実刑判決については、その社会的な反応は鈍く、政界や文化人などは追及が中途半端で、NHKをはじめとしたメディアの報道も緩かった。日本社会の倫理を崩壊させたマトモでない政治家とマスコミの影響のもとで作り上げられた心を持たない人間が日本に大きな打撃を与えることになるのではと危惧している。

そして道徳というものは上から崩れるものであることは歴史が示しているとして、上に立つものが範を示すことが大切であると説いている。すなわち現代日本では社会的に上位の立場にいる議員、大学教授、メディアなどが範を示すことが社会を正常に保つことを銘記すべきであるということである。

そう言う記事を読んで、私は国会議員や知識人あるいはメディアあるいはなんらかの組織トップなどは品のある議論と言動が出来る心ある人間の見本になってもらわないといけない、そういう心構えを持つことが大事であると思ったわけである。そしてそういう上のひと達を見ることなしに若者や国民は彼らの言うことややることに関心を持つようにならないということが分かった気がした。それがどの程度の影響力があるか分からないが、音喜多氏が言っていることを理解してその言動の仕方あるいは心の持ち方を正して行くしかなさそうだというのが、二つの記事を読んでの私の感想である。


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