屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
                     Home > 目次_top  >  記事

No.09 岡山金属バット殴打事件に思うこと (H12.07.12)

今ニュースで岡山の金属バット殴打事件が注目されている。高校生がいじめに耐え切れずきれて後輩を金属バットで殴り、後輩を殺してしまったと思いこみ、母親に迷惑かけたくないと母親をも金属バットで殴り、母親は死んでしまった事件である。以下上記の報道が正しいとしての感想である。

まずきれていじめたりいびったりした相手を殺すことについてである。昔黒川弥太郎が主演した映画で題は忘れたが城勤めだか役所勤めだかでいびられ我慢の限界を超えて「そんなに拙者が憎うござる」かと言って朋輩たちを殺し自分も死ぬというのがあったと記憶している。

また仲代達也が主演の切腹という映画があった。浪人の若者が生活に苦しみ金欲しさに大家の門前で腹を切らせてくれと言う。普通は幾ばくかの金で追い払う。だがその時はわざと切腹をさせてやるという。貧乏浪人が竹光で苦しみながら切腹する。政にかかわる者が市井で食うことに難儀してやむにやまれずやった娘婿を惻隠の情もなくいじめ殺したと義父の仲代達也が大家に意趣返し自分も死ぬというものだったと思う。

日本特有のメンタリティかどうかは知らないが日本ではこのように我慢に我慢を重ね限界を超えるまでになったら相手を殺して死ぬということに美しさを見る。それを評価さえする。私も映画を見ていびりいじめる方が悪いと納得していた。今もそうである。

時代小説やドラマなどで城攻めがある。城方はもはやこれまでとなると妻子を殺し自害する。これは当り前のごとくよくお目にかかる。高校生が母親を殺した論理と似ている。これも世間では受け入れられ評価されている。私も自分が殺される子ならいやだとは思いつつ当然のごとくドラマなどを楽しんでいる。

日本では意趣返しに人を殺したり愛する者を苦しみから救うためという理由で殺し自分も死ぬということにそれなりの共感をいだく人が多いと思われる。

今回高校生は自殺しなかった。日本人はちょっと戸惑っているかもしれない。

以上ひとつの見方である。反面映画やドラマの題材はそれがまれだからこそ取り上げられたのである。共感はするが発生確率はきわめて低い。だから安心してみているのである。

いまなぜこのような事件が目につくのか。それは世の中の変化の結果である。東洋何千年の歴史、それを受けて形成されてきた日本社会の処世のし方やものの受け止め方、それは例えは良くないかもしれないが長幼序ありであり、柔よく剛を制すであったりした。

しかし今柔道に例をとれば階級別になりただ勝ちを競うことだけのものになってしまった。小兵が大のものに敵わぬまでも倒す努力をするのを評価したり賞賛したりしない。明治に成立した柔道にはその考え方に古来のもののあわれが感じられる。

古来の生き方の教えは今まで生きてきた人たちの知恵である。東洋何千年かの生き方の教えには弱いものへの思いやりや共感があったのではないか。今の行動原理の中に人の気持ちと溶け合わない部分が見えてきている。だから安心できない。不安ばかりが大きくなるような不安定な行動原理のもとでは変だなと感じる事件が多くなる。

以下会社生活から感じたことである。第一次石油危機までは規定就業時間後残っていると早く帰れと言われた。だが危機を契機にしてサービス残業が称揚されそれに追従する者が評価される時代になっていった。例えばそれまでは技術力があり仕事の中身が優れていれば朴訥であっても職場で存在感があった。それがだんだん粋がり浅薄な言動をする者がはばをきかせ歯止めがきかなくなっていった。やることに品がなくなっていった。私はこのような変化が今につながっていると思っている。 

次いでいじめやいびりのことである。件の校長はいじめはなかったと言っている。大体こういうものは当事者間でないと解らないものである。いじめやいびりは他に解らない様にやるのが上手の者のやり方である。会社でもそうだ。いびりつくされて問題を起こす。いびっていた人間はあれは優秀だった期待していたなどとシャーシャーとして言うのが常である。

私の経験ではいじめのトリガーは教師である。息子が小学生の時富士登山に行った。頂上目前で雨風はげしく山小屋で休みそのまま下山した。息子は夏休みの思い出を発表する際富士山登頂したと思いこんでいたのでそう発表したらしい。妻が後で教師に会ったときその話が出て妻は頂上目前で引き返したのだと言った。

教師はその後のクラスで息子はうそつきだと皆の前で執拗に攻撃したそうである。それから息子はうそつきの烙印をおされいじめられ続けた。本人は登頂したと思いこんでいたのである。本当でなっかったのは事実だ。しかし私から見れば子供のちょっと誇りたいそういう気持ちをそのままにしておいてやろうという器量のない教師にあたった子が不憫だった。

子供は家庭では大体良い子にとの思いで育てられている。人をいじめるそういうのも良くないと育てられている。そういう状態で世の中すなわち学校へあがるのである。いじめにつながる価値観を子供に植え付けるのは出来の悪い教師なのだというのが私の実感である。


 
 Home   back