My logbook : 屋久島方丈記 
Home > backnumber目次 > 記事  
  日誌編  ・ 偏見ご免のたわごと編  
  たわごと編: No.503
 
  2019.02.18 悪ものに寛容なひと_悪ものの責任を他にすり替える  
 
  2月上旬、野田市の女児小学生虐待致死がテレビで大きく取り上げられていたが、ある報道番組の中であるコメンテーターが児童相談機能を県別運用ではなく警察なども含めて国として一括管理運用したらこういうことが防げるかもしれないのに政府は動かないというようなことを言っていた。私は虐待では被害者を一時保護するよりは加害者を一時拘束しその犯罪性をを調べることが出来るように刑法化した方がよいのではとは思っている。

しかし網羅的恒久対策を論ずるよりは、まずその前に事件が起きたいまの状況下あるいは条件下での犯人の問題やなぜ各既存関連組織がその責任を果たし得えなかったかについて現在の体制を検証するのが普通ではないか。そういうはなしに論及せず一足飛びに暗に政府の対応不足を攻撃する綺麗言を付け加えているのは、自分の政治信条をアッピールしようとしてだということは見え見えだが、視聴者はこういうのによく騙される。犯人や関連組織の問題を薄めるように批判の目を政府に向けさせようとしているようで気になる。

リベラルを気取ったコメンテーターなどには何か事件が起きたら政府にも責任あると言及する人間がいるが、私に言わせれば政府の不備でそういう事件が起きてしまったと言っているように聞こえるときがある。影響力のありそうなひとがそう言うと、犯人も悪いが他にも責任を問われなければならないものがいるということになって、犯行やそれへの対応の悪さを薄めようとしている感じがしてくる。犯人などの味方をしてまで自分の政治信条をアッピールしたいように見えるのである。

韓国の火器管制レーダー照射事件でもそうだが、やったのは韓国艦艇であって韓国側である。その行為をした方に非があるわけである。ところがいつも政府を非難することが使命だと勘違いしているようなリベラルを売り物のコメンテーターなどには、韓国がなぜそういうことをしたのかその事実状況や背景などから韓国の責任を問うことをせず、韓国にも事情があるはずでそれを慮って日本は対応すべきで、政府にも問題を大きくしている責任があると言って、韓国側の非の問題を日本の対応の問題にすり替えるようなことを言うものもいた。この種の言動をする人を見ると敵対行為をする国に対抗できる日本にするための議論も妨害しているように思えて来る。こういう輩は心情的に反日意識を持っているように見え、それでは当然政府から意見を聞かれることもない。それが分かるからまたそれがフラストレーションになって日本を悪く言っているのではないかと私は勘繰っている。

またいま国会で追及されている統計不正の問題だが、これをやって来たのは歴代政権期間にわたっての当該業務関係官僚である。その統計でものを言ってきた歴代政権や現政権は苦境に立たされることは間違いない。しかし政府はよい数値を期待して政策を実行するのは当然で、だからと言って歴代政権が数値の捏造を求めそれに従わせていたとは考えにくい。まずは不正の事実関係をつまびらかにし官僚の責任を問うことが重要である。どこかの時点で当該業務関係官僚が仕事への誠実さより面倒な問題を避けることを選んだのが発端ではないかと私は想像している。ところが野党などの中には現政権の責任を追及することを優先しているように見えるひとがいる。まずは徹底的に犯人の悪さを暴かなければいけないのだが、犯人の責任を薄めるような動きを優先しているように見えてしまうのである。表向き官僚が悪いと言いながら不正を行った官僚に寛容なのではないかと思えて来る。

私は、悪事が発覚したらまず悪さをしたものの責任を追及し明らかにすることをしてほしいと思っている。それが解明されてから体制や運用などの仕組みについて改善の検討をしていくべきであると思っている。犯人の問題点やと犯行の事実が分からないままに周辺環境やシステムを難じても的外れになる可能性がある。また犯人の悪さと社会や行政システムの責任を同時追及すると、犯人とその犯行に追いやったひとや組織の責任意識や彼らの悪さへの印象を薄める効果が大きいと思われる。何でも政府の責任にまで言及するリベラルであることを誇っているようなコメンテーターや野党その他の人間は、自分がその行為でいまの社会の自分の非を棚に上げ何でもひとの所為にする風潮を作っている張本人なのではないかと自問してみる必要がある。

はなしは飛ぶが、いわゆるワルとその周囲に寛容という風潮で困っている問題はいろいろあるようである。例えば教師が何も反撃できないのをいいことに悪さを止めない生徒の問題もそうである。大体、教師の体罰事件などの発端となるのは生徒の行動である。児童・生徒は未熟だから守られるべきものとか教師や学校の在り方はこうあるべきいうような幻想は、児童虐待対応に於ける親子や家族のあるべき姿はこうだというような幻想と似て、その幻想を前提とした対応では実際の状況に対応できない。まずいわゆるワルあるいは犯人の罪を責めそれなりに取り扱えるようにすることが必要である。上記は一例だが世の中でのいろいろな事柄に関し幻想が幅を利かせているところがある。誰も反対しなそうな幻想で理想的社会を語れば、誰も表向きそれには異を唱えられない。そういう風潮を作った張本人もどこかにいるわけである。

補足: 
学制服は軍隊由来だから変えるべしと_コメンテーター
2019.03.07
どこかのテレビ番組でリベラルらしきコメンテーターが学生服は軍隊由来だから帰るべきと宣ったらしい。韓国でもランドセルにそんな難癖をつけているものがいるというはなしもある。学生服は学校が任意で採用しているし、制服や正装を決めているのは軍隊だけではない。それぞれ訳あって採用している。バカじゃないか。軍隊由来ならインターネットだってロケットだってGPSだって軍事技術として初めは出現したのではないか。軍事技術をを民事利用することで世の中は便利になっていることは多い。軍隊由来にどっぷりつかっていながら自分の信条に合わないものだけ都合よく批判するのはリベラル・左翼の常套手段。私もいわゆる男子学生服のデザインは好きではないが、フォーマルスーツみたいなものだという感覚で見ている。


(関連記事)
屋久島方丈記・偏見ご免のたわごと編:
  No.328  いじめ_犯人探しは必要  (2016.02.03)

. 
 
 
back
「My logbook : 屋久島方丈記」は、「 My logbook : 屋久島生活の断片」の
日誌編 と 偏見ご免のたわごと編 の 継続版です。
My logbook : 屋久島生活の断片」の ご案内
日誌編 と 偏見ご免のたわごと編 (2010.05.31までの記事)
屋久島釣り場案内
妻関連の「SpinCom」と「SpinCom Gallery」