My logbook : 屋久島方丈記 
Home > backnumber目次 > 記事  
  日誌編  ・ 偏見ご免のたわごと編  
  たわごと編: No.305  
  2015.09.21 安保法制案成立_ジコチュー印象強い街頭の反対理由  
 
  今回強引な委員会採決だったが、反対野党が仕掛けた女性議員セクハラ狙いを武器にした委員会阻止行動が与党側の委員会強引採決行動を誘ったと思われ、反対野党側の行動が合法なら与党側の行動も合法ということになるわけである。法案成立は選挙で選ばれた議員数からすれば当然の結果である。それにしても女性人権を標榜する女性議員が女性を武器に阻止行動をするというのは参加女性議員の底が知れたということである。

集団的自衛権容認の閣議決定がなされたあと、反対野党は日本の防衛政策をそれならどうするのかという根本的な党内論議を怠って来た。どういう日本にするのか。そのためにどうするのか。そういう日本の行き先を示せなかった。反対ばかり唱えて想定される日本の危機にどう対応するかという対案が見えなかった。

私は安保法制案には賛成である。そうは言っても国会ではもっと実のある論議をして欲しかったが、私が期待したような論議はなされなかった。安保法制は必要なことは明らかなことなのだから、それを現実を踏まえどのようなものにするかについて議論して欲しかったのだが、まともな議論はなかったように思える。

違憲法案、戦争法案というはなしばかりで、議論がなぜいまの日本に集団的自衛権を明示的に認める必要があるのかについて、まともに与野党が議論しなかった。私は近隣・世界情勢の中でアメリカとの関係も含めこれからしばらく日本がどうやって凌いでいくかという問題について与野党が共通の理解を深められるほどに反対派野党の思考の階層が深くないあるいはわざと深めなかったからではないかという印象を持っている。

現実の情勢を洞察し日本としてどうすべきか、そしてそのために必要なことは何か。それを考えて出来た法案なら、日本が現実の中で凌いでいくのに必須の法案である。それが従来の憲法解釈と合わないならば、すぐに改憲できない状況では憲法解釈を変更してでも成案としなければならないわけである。違憲だから廃案という意見は現実に想定される危機への対応策より憲法の字面が大事ということになるから、私には納得出来ないわけである。自国の危機に対応するために憲法の解釈ですり抜ける道を探さず字面の適合性を問題にするだけなら憲法学者はいらないわけである。

戦争に巻き込まれる戦争法案だとか徴兵制復活とかという意見については感情的自己中心的発想からの意見のような印象である。集団的自衛権を否定するなら外交手段も功をなさない状況になって戦争を仕掛けられた場合、個別的自衛権で対処することになる。日本の正規軍事力だけで対応できなくても日本だけで対処しようとすれば行く先は国民総動員・徴用にまで行き着くかもしれない。まあ反対派はそういうのは嫌だ嫌だということだから、戦争を仕掛けられたら戦わず降参するということかもしれない。すぐ降参するに防衛力整備はいらないから、反対野党は防衛政策を根底から論議し対案を練ることを怠ってきたという見方もできるわけである。

集団的自衛権を認めるということは、日本の正規軍事力だけで対応できない状況では他国に支援を求めることが出来るわけである。支援してくれる仲間を増やしておく必要がある。しかしその対価として支援してくれる他国が危機にあるときは日本が支援するのは当然である。その辺を理解して法案でどこまでやるかの論議こそ必要だったわけである。誰でも戦争は嫌である。戦争をしたくない。そう言っていれば戦争を仕掛けて来ない相手ならそれに越したことはない。しかし日本が戦争を仕掛けなくても、相手が戦争を仕掛けてくるか来ないかは相手が決めることである。

戦争は嫌だ、子を戦争にやりたくない。それはみんなそうである。自分のことだけ考えればそれで押し通したい。そう言って何も備えなければ、日本に戦争を仕掛けたい相手が手を出しやすくなる。抑止力が弱くなるわけである。戦争に巻き込まれたくないと備えを怠れば、戦争に巻き込まれやすくなるわけである。自分のことを棚に上げてと言われるのは承知で言うのだが、デモ参加者などのインタビューを見る限り自分の気持ち中心でしか考えていないのに自分ではそれに気づかずそれなりに自分はいっぱしだと思い込んでいる普通の人間がデモを仕掛けたり反対意見を言っている人たちに結構いるという印象が強い。それは偏向メディアや反対野党が煽って真剣な防衛政策論議から国民の目をそらし、少数なのに多数のような顔をして自分たちの意見だけが正しいと威嚇攻撃する空気を醸成することに誘導された面がかなりある。私はそんな気がしている。

(追)
私は国会でまともな論議をせず世論を煽る反対派野党にうんざりしている。民主党を例にとれば歴代代表は集団的自衛権を認めていたというはなしがある。平成15年5月の読売新聞や中央公論17年7月号での岡田氏の発言に「日本を防衛するために活動している米軍が攻撃された場合、日本に対する行為と見なし、日本が反撃する余地を残すのは十分合理性がある。今の憲法は全ての集団的自衛権の行使を認めていないとは言い切っておらず、集団的自衛権の中身を具体的に考えることで十分整合性を持って説明できる」とあるらしい。

また野田佳彦元首相の著書「民主の敵」には「いざというときは集団的自衛権の行使に相当することもやらざるを得ないことは、現実に起きうるわけです。ですから、原則としては、やはり認めるべきだと思います。認めた上で乱用されないように、歯止めをかける手段をどのように用意しておくべきかとい議論が大切になってくるわけです」とあるそうである。

なんと今回の法案反対行動と隔たりがあることかと不信感を持たざるを得ないわけである。その時その時で自分に都合の良いことを言って来ているとしか見えない。これが野党第一党の姿である。その時々で自分に都合の良いこと言いながら飯を食っている人間とそういう体質を持っている偏向メディアや偏向知識人がいるからそれなりの勢力を保っているようなのだが、そろそろまともな党員は離党・分党したらどうかと私は思っている。

補足: 安全保障関連法施行のこと
2016.03.30
昨29日、安全保障関連法が施行され国会前や全国の場所で反対デモが行われたというニュースが流れていた。野党は法案廃止を訴えて行くようである。私は戦争法案だという決め付けや徴兵制になるなどという批判はたわごとではないかと思っている。反対派の意見は不測の事態が発生したら自衛隊のリスクが高まるすなわち戦争に巻き込まれるという視点からの発言のように思える。

今回の本質的問題は、日本が戦争に巻き込まれるような不測の事態発生をどう抑止するかということである。集団的自衛権が行使出来れば個別的自衛権だけでは抑止できない不測の事態をより抑止出来るのである。一国での安全保障より人員・装備そして費用もかけなくてよいのである。

また個別的自衛権だけでは日本は自衛隊だけで不測の事態による戦争に100%対処しなければならない。しかし、例えば二国間の集団的自衛権行使では敵国への対抗能力増大効果で不測の事態発生が抑止され減る。それでもいずれかの国で発生する不測事態で戦争になったら二国で対処するわけである。不測事態で戦争が発生する確率も減っている。そして戦争発生時にも自衛隊の損害リスクも二国に分散する。戦争のリスク(日本が戦争に巻き込まれる度合いや日本が被る損害の程度)は格段に低くなるわけである。つまり、戦争に巻き込まれても個別的自衛権だけ行使の場合より日本の安全が守られる可能性が大きくなるわけである。

私はそう思っているので、あとは運用の問題である。野党は国会でその運用を監視して行くしかない。またPKO活動における警護での戦闘などは活動の一局面であって戦争ではないので区別しないと国の安全保障の本質を見誤る。野党は感覚的な戦争法案だという決め付けやそのための方便としての徴兵制になるという煽りは止めて、国の安全保障はどうあるべきか、自分たちで発信できるものがありその力があるならば、それを訴えて行けばよい。自分たちで発信するものがなく政府・与党の政策に反応して反対するばかりではその存在意義をそのうち問われかねない。


(関連記事)
屋久島方丈記・偏見ご免のたわごと編:
  No.226  自衛権_個別的も集団的もなさそうだが  (2014.05.26)
  No.290  安保法制論議_違憲・合憲論議に関心はない  (2015.06.29)
  No.354  鳥越俊太郎氏は都政のことに関心ないみたい  (2016.07.18)
  No.362  民進党代表選挙_傍目から見た三人の違い  (2016.09.12)
  No.398  テロ等準備罪_ゲバ棒騒ぎ共感派は怖がるかも  (2017.04.17)
. 
 
 
back
「My logbook : 屋久島方丈記」は、「 My logbook : 屋久島生活の断片」の
日誌編 と 偏見ご免のたわごと編 の 継続版です。
My logbook : 屋久島生活の断片」の ご案内
日誌編 と 偏見ご免のたわごと編 (2010.05.31までの記事)
屋久島釣り場案内
妻関連の「SpinCom」と「SpinCom Gallery」