My logbook : 屋久島暮らし残照録  
  Home > 目次 > 記事  
  偏見ご免のたわごと編:  No.245
終戦記念日に思う_戦争は嫌だと言うだけでは  2023.08.15
  終戦記念日がまたやって来た。この日に限らずよく聞くのは、平和の大切さという言葉である。それは当たり前で誰でも戦争は嫌だ、平和がよいに決まっている。そして平和運動みたいなものが世の中にはあふれている。誰でも戦争で死んだり危害を被りたくないわけである。

むかしから多分世界中でそう思っていていろいろな工夫をして来たが未だに戦争はなくならない。あれは身体に悪いと言われてもうまいものならそれをは食いたい。食い意地の悪い人間が古来より絶えてなくなることがないように、戦争の種になりそうな独善的欲望あるいは正義を主張する人間もなくならない。ネットあるいはSNSには独善的正義のようなはなしがあふれている。テレビを見れば自分の正義かどうか知らないが、ひとを殺したとか刺したとか、そんな事件も古来からあったと思われる。

そのスケールが国家とか世界のレベルになればそれは戦争であって、誰でも戦争する程ではないかも知れないが自分の意思あるいは正義を通したいという欲望は持っている。そういう人間がいる限り多分人類が絶滅するまで戦争はなくならない。そういうなかで戦争は嫌だ、平和がよいとただ言っていてもその声が自分の意思あるいは正義を通したいという欲望は持っている人間に届くかどうか疑問である。

私は戦争は嫌だ、平和がよいとそういう思いを持つ人の輪を広げようとするのはそれはそれでよいとは思うのだが、本当に平和な世界にするにはどうするのかその具体的方法がないと、誰でも思っているただの希望表明にすぎない気がしてしようがない。

例えば戦争を防ぐには外交が大事だ。それは当たり前のことである。だがどういう外交をすればよいのかそれを言わない。仲よくすればよいと言っても相手の言いなりにならずどうすればウインウインの妥協点を見出すのか。それを外交するものに人任せにして外交は大事と言ったって説得性を感じないわけである。

戦争は嫌だから軍備は持たないと言っても、ウクライナのように戦争を望まないのに突然攻撃されることもある。戦争は嫌だ、平和がよいと言っているうちに戦争になって死んだり危害を被ることもあるわけである。こういう現実に平和は大切だと言っても、そう思いそう主張しているだけでは平和にはならないわけである。


(関連記事)
屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編:
  No.318  憶えていること  [2009(H21).08.31]
屋久島方丈記・偏見ご免のたわごと編:
  No.474  原爆の日のお題目_核兵器のない世界  (2018.08.13)
屋久島暮らし残照録・偏見ご免のたわごと編:
  No.243  核兵器無効化兵器は_原爆の日に思う  (2023.08.09)
. 
 
  back