私は横浜で生まれたので、初めの記憶は横浜でのことである。家には祖母と母と私と2歳下の弟と他にあずかっていた父の長兄の子・従兄弟や身体の弱い叔父がいたように思う。ある夜、空襲警報が鳴って家中の他の電気を消してみんな一部屋に集まった気がする。そのとき天井から下がっている電灯のお皿を逆さにしたような笠に黒い布をかぶせてあって真下だけが明るかった。電灯と黒い布と布の下の局所的に明るい景色が印象に残っている。
ある夜には誰かに背負われて外に出て遠くの空襲を見ていたと思われるが、燃えてか地上の火あるいは照明に照らされてか赤く光る飛行機が空を横切っていくのを見ていた記憶がある。またある日には防火帯を作るためか、爆撃でやられて残った家なのか知らないが、大勢でロープをかけて家を引き倒しているのを見た記憶がある。もうもうと埃が舞い上がっていた。
そのあとは疎開をするときの記憶である。父は輸送船に乗っていて撃沈され助けられてそのときは軍需工場に徴用されていたころだと思われる。多分祖母と母と私と弟の4人が父の田舎に疎開することになって父が見送りに来て私たちは汽車に乗っていた。私が小便をしたがったのではないかと思われるが、大勢の人で混雑した中で汽車の窓から手渡しで私が出し入れされた記憶がある。
そのまたあとは疎開先の田舎でのことである。多分終戦の日である。日がまぶしかった記憶がある。空に飛行機の音がブーンとして寄宿していた家にいるみんなで庭の防空壕へ走って逃げた。飛行機は見上げたときの記憶では銀色で4発のようだったから多分B29ではないかと思われるが、何事もなく遠ざかっていった。なぜその日が終戦の日だと思うかと言えば、誰かが戦争は終わったのにというようなことを言っていたような気がするからである。そして防空壕から家に戻るとき庭の通路沿いにカボチャがなっているのを見た。今でもそのカボチャの景色が印象に残っている.
戦争で横浜の家は燃えてしまった。終戦になってしばらくして父も田舎へ帰ってきたが、ほとんどすべてを失ってそれからは貧乏暮らしが続くことになる。その日暮らしを見かねた叔父の一人が上京して仕事を探せと手引きをしてくれたのが私が小学4年のときである。しかし以降も成人するまで暮らし向きが変わることはなかった。
8月15日のCS放送・アサヒニュースターのパックインジャーナルで愛川欽也がその人の戦中戦後の生活の程度で戦争に対する見方が違う。苦しい生活をした人は戦争に対する見方が厳しいが楽に過ごしてきた人は戦争に対する見方が甘いというようなことを言っていた。私も今はそれなりの暮らしができるようになったが、成人するまでにしみこんだ貧乏人根性は抜けず、偉そうなことを言うが惻隠の情のない人間は信用できないでいる。