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11月初めころ購入した本だが、「バカと無知・人間、この不都合な生きもの(橘玲著・新潮新書)」を読んだ。私はこの類の本については、自分はどれくらいのものなのか世の中をどう見ればよいかを知る参考として、自分の生き方を考える一助として読んでいる。以下は今回私の印象に残った事柄である。
私は、以前読んだゼロポイントフィールド仮説についての本で意識という言葉が印象に残っていたので、まずそこに書いてある意識という言葉が底流に流れていると思いながら前書きを読んだ。
そして前書きから私が理解したことである。近年の脳科学は脳が予測と修正を繰り返す高機能のシミュレーションマシンであることを明らかにしつつあるということである。そしてシミュレーションは現在だけでなく過去(後悔>反省・学習の土台)や未来(希望・絶望)へも延長される。それをするのは各人それぞれであるが、各人それぞれそのシミュレーションによる過去・現在・未来の物語で自分がどういうものであるかを知るわけである。そういう意識がなければ自分がどういう自分であるか分からない。つまりそれが自己は意識であるという所以である。そして自分は何かと問われれば、その答えは意識だということになるわけである。
その各人それぞれのシミュレーションによる意識(過去・現在・未来の物語)が人間社会の中でどう構成されるかということだが、シミュレーションは物理的制約(例えば人体機能)、資源の制約(例えば金銭、時間)、社会的な制約(例えば家族、会社、地域社会)のもとでなされる。最も影響力があるのは社会的制約である。自分以外のひともそれぞれ自分としてのシミュレーションをしているのだから、互いに社会的制約を及ぼしあっている。その中で何とかして各人それぞれシミュレーションで自分の物語を構成して行くしかないのだが、そうしながらわれわれは生きているわけである。そして良いに付け悪いにつけ、われわれはそれぞれそのシミュレーションによる意識に支配されていまを生きているわけである。
そのあと本文を読んだのだが、本文はいろいろな事例についてその依って来たるところを解説し論じていて、私の見るところ、ひとが進化してきた中で得て来たいまの姿を受け入れながら負の側面をどうかわしながら社会的に生きて行けばよいのかということのようである。そしていろいろな場でその在り方は異なるのだが、「バカは自分がバカだと気付いていない。だからバカなのだ。知らないことを知らない。」、これが本文内容の背景のようである。
そして知能が高い者の方が他者は自分の知らないことを知っていると思う傾向があるらしい。そこでバカに引きずられないで世の中を住みやすくあるいは生きやすくするには、どうあるべきかということだが、バカを排除するという不穏な結論に与しないで、バカでないそれぞれが自分がおかしいと思うことはどうしてそうなっているのかを考察して、自分のシミュレーションに反映させるしかないと言っているようである。それぞれの意識によるわけだからそういうことになるのかも知れない。
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