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  偏見ご免のたわごと編:  No.176
相手を思い通りに_自覚なしにそれをするひと 2022.11.07
  自分がそうした方がよいと思う行動・判断あるいは振る舞いをして欲しいと期待することはよくあることである。でも相手がそうするのが当然と思っているなら問題である。そして要望あるいは干渉の果てには自分の思い通りの答えが返ってこなかったり自分がした方がよいと言ったとおりに動かない相手に恫喝まがいの暴言を浴びせ非難し強引に従わせようとしたり、切れて相手を乱暴な言葉で非難しまくり絶縁を宣言したりするとなれば本人だけの問題では済まない。当人は自分が相手に対してそういうことをするのに何の疑問も持たず当たり前に許されていると思っているのだから、そういう態度の是非を議論する余地がないのでしたいがままに放置するしかない。

あるいはまた自分がひとを巻き込んでやりたいものごとに自分のいまの立場やかつての立場に絡めて誘うのだが、その誘いに乗ってくれるのを無意識に前提にしていることが透けて見えて相手は断りがたい。相手としてはもういいだろうと思っていても断りがたく困っているのだが、誘う方はそういうことへ意識が及んでないから自分から止めてくれないし、あるいは誘われる方も何かしてもらったからお返しをしなければならないという気持ちがあると断り切れない。そして勇気を出して嫌われてもかまわない気持ちになって断れればよいのだが、それが出来ないとそういう悩ましい関係がずっと続くことになる。

こういう無自覚にひとを自分の思い通りに動かそうと言ってくる人間はいる。普通に見える人間が普通の如く当たり前のこととして言って来る。育った環境例えば家族観・親族観や職場の主従観で培われたいわゆるステレオタイプの価値観のなせる業かも知れない。あるいはどうして身に付くのか知らないが性格の邪悪性すなわち自分の得のためなら他人はどうなろうと気にしない気質のなせる業かも知れない。一見普通に見える人間がそれを意識しないで巧妙にその本性を隠しているからことが始まらないとそれに気づきにくい。そして周囲はそういうことに関わらざるを得なくなったときその迷惑さに気づくわけである。

そういう人間に悩まされたくないなら、自分は自分と思うこと、そして嫌なときにはそう言えること、つまり他人の思いに従うよう求められてもそれに従わず自分のしたいことが出来る精神を備えたいわゆる自立した人間になることである。ひとと自分は違うことをはっきりとさせることが出来る人間になることである。私の読んだものの本にはそうある。

そこで思うのだが、意識しているいないに関わらずひとを思い通りに動かしたい人間の方は、相手と自分は違う人間だということについてとか、精神的自立についてとか、どう思っているのだろうか。私の見るところ自分は正当なことをしている自立した人間だと自信満々で言い切り顧みることをしない人間の可能性が高い。相手には相手の思いがあることを理解し尊重するより、相手の気持ちを軽んじ自分の思いを通すことにこだわって変わることはないと思われる。だとしたらこちらから離れない限り悩まされ続けることになるということかも知れない。

補足; 気になる原因_パフォーマンス低下
私が関心をもって見ているひとがいて、最近そのパフォーマンスが落ちているのが気になっている。その原因はもしかしてこういうことではないかと考えたのが本文である。


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