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  偏見ご免のたわごと編:  No.152
勝つことにこだわる_それは気質か 2022.07.11
  昨日、参議院議員選挙があった。それで政治にかこつけての記事である。本文は、政治家あるあるについて何となく違うのではないかと思って大分前に書いたものである。囲碁が強いひとは大局的判断や先を読む能力が高いというようなはなしについてである。

本文記事を出そうと大分前から予定していたのだが、先月のある日にあるブログを見たら、「謙虚な姿勢を弱さだと勘違いするおバカな人」と題する記事があった。曰く、「謙虚さって大事だけど、頭良いヤツにしか通用しないぞ。バカは気づかず、なめてくるから。」、そして「相手がどういう気質の持ち主かという見極めが大事。万が一、謙虚さを勘違いするバカに遭遇したら、毅然と対応することが肝要である。」とあった。

それを見て、囲碁などのゲームの強者について勝つことにこだわる気質のなせるところではないかという見方を記事にする私も、上記ブログの話題と同様その能力のすごさを理解できないバカかも知れないという気がしたのである。ただ今回、当時その正否に自信はないながらも感じていた違和感のことをなんとなく紹介してみたい気なったのである。バカと一蹴されるはなしかも知れないとは思っている。

(以下_本文)
よく政治家や指導者は大局観を持つあるいは先を読む能力を持つべし。そして囲碁が強いひとはそういう能力を身につけているはずということでか、政治家で囲碁が強いのはだれそれというはなしはよく聞く。しかしそのひと達が囲碁でついた能力を生かして本当にそれを活用していたと私には思えない。OZW氏はいま野党でくすぶっている。YSN氏も何か世を動かしたという印象がない。KN氏はその人物としての評価に疑問を残している。HSN氏は女で転んだ。私としては囲碁がどうのこうのというはなしには疑問を持っている。

将棋だって有名な棋士同士が不倫で自分の身さえも見通せなかったことを見ている。ただゲームに強い。勝ち負けだけのゲーム内での能力の優劣を人間の優劣に勘違いしているだけではないか、そういう疑問を私は持っているわけである。運動で勝ち負けにこだわるのも同じだが、そのゲームで勝つことに集中する。そこでの能力が開発される。そういう意味ではやる気あるいは集中する気力、どうしても勝とうという気力が養われそれが他の場面でも評価されるということかも知れない。

それなら勉強、例えば数学とか物理とかあるいは文学や音楽など、何をやっても同じだろうという気がする。会社なんかでは何しろ上に行こうというものがのし上がっていくのも同じことだと思われる。

それはそれでよいのだが、私のような軟弱者、試合に勝てれば楽しくうれしいが運動は適度に身体を鍛えればよく、何か仕事について食っていければよいというのが勉強や進学の動機で、ひとを押しのけてまでどうにかなろうという気がない人間には、スポーツあるいはゲームなどで勝ち負けにこだわるのはその人間の気質で、そういうひとはそうしないではいられないからそうしているのではないかという気がしているのである。
(以上_本文)

補足; 疑問を持った切っ掛け_負けず嫌いの負け惜しみ
囲碁などゲームの勝ち負けは何となく頭の程度と関係づけて見られるという意識があって、負けるのが嫌だから私は関心があってもやろうという気は薄かったのだが、あるころ人間として成長する助けになるならやってみようかという気になって同好の会に入って手掛けてみたことがある。そこでどうすることが大局観とか先を読むような能力を鍛えることになるのか会得したいと思いつつ自己流で試しては相手に嫌がられながらやっていたのだが、負けるのが嫌だという気持ちに負けてそのうち止めてしまった。そして負け惜しみだが、先を見越せる力が付くと言うがそんなものが付くのかという疑問が残ったのである。


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屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編/日誌編:
  たわごと編・ No.64  軟弱者の言い分のこと  [2001(H13).08.13]
    日誌編・ No.128  囲碁のこと  [2003(H15).09.08]
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