屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.134 屋久島(75):囲碁のこと H15.12.15)

囲碁の同好会に行き始めて三ヶ月半がたった。全くの初心者からの出発だから囲碁暦三ヶ月半ということになる。一週に二日犬の散歩もあるので各2時間半くらいだがほとんど休まず参加してきた。しかし最近は初めのような意気込みが薄らぎつつある。何とか人に相手にしてもらえるようになりたい。楽しめるようになりたい。それを当面の目標にしているのだが、私は進歩が遅い。進歩がないことを人は多分なんとも思っていなくても、自分はそれを意識してだんだん居心地が悪い感じになってくる。

今は、初心者は私ひとりである。正確に言えば大人では私一人である。初めは皆初心者と言われても、参加するときはいつも気後れを感じている。それが時間がたっても進歩しないと、相手をしてくれても相手は面白くないのだろうな、とか余計なことを考えるようになる。女性や子ども相手なら教える楽しみもあろうが、いい年をした初心者のそっぽを打つばかりが何度やっても進歩がないでは相手するのが嫌になってしまう。上手はそんな思いではなかろうかと思いつつ、手のあいた人がやってやろうと声をかけてくれるのを待っている。やってくれと言えない自分がなんとも情けなく、だんだん居心地が悪くなるのである。

大人以外の初心者では役場主催の初心者講座を終えた小学生などがたまに来る。小学生の相手を決められいやいやながら一度やる羽目になったが、そのときは運良く勝った。感想を聞かれて小学生とやるのはプレッシャーを感じると言っておいたが、次に小学生が来たとき皆の前で断りきれずまたやる羽目になって、このときは負けた。こちらは年齢が最大の価値観である。孫なら我慢できても見ず知らずの子どもに自信を与えるためのだしのように思えて、もう初めからやるのは嫌だった。

負けることを受け入れられない気分というのは誰にでもある。囲碁では私はまだそういう状況を受け入れる余裕がないのである。少しは自分で碁をやっているなと感じられるようになれば、子どもの優位を尊敬する余裕もでると思われるが、今はその余裕はない。その次からは子どもが来たら退散することにした。大人気ないことは承知だが、そうでもしないとどんどん意気込みが薄らいでしまいそうである。

なんとなく居心地が悪いと感じたり、子どもに相手をしてもらうのがいやなのは、周囲の扱いに理由があるからということではない。ただただ自尊心だけは一人前だがそれに見合った力がないからである。楽しめる境地になる前に疎外感と自尊心の壁を乗り越えなければならない。初めはいた他の同年代の初心者は、今は来なくなったが、私はまだ囲碁を楽しめるようになりたいという気持ちはある。そんなに努力せずなんとなく通っているうちに形になるだろうという姿勢では、なかなか進歩しない気はしているが、まずは疎外感を乗り越え、子どもは避けつつめげない振りをしてなんとか通いたいと思っている。


補足: いまだ進歩のあと見えず (H16.01.26)

回を重ねてきても進歩のあと見えず、心なしか相手をしてもらえる回数も減ってきたような気がしているが、同好の士が楽しむ会なのに楽しくもない者の相手をしてくれる人には感謝しなければいけない。私は熟年初心者対局ボランティアを期待しすぎた感もある。

ところで力不足と反省を棚に上げて、相手の出現を待つ間に浮かんだぼやきの謎掛けを一つ。 囲碁初心者の私と掛けて何と解く?。・・お茶引きと解く。・・その心は?・・やっても面白くないのでなかなか相手がつかない。」 (自嘲)

注: お茶引きとは、はやらない遊女や芸妓のこと。
                             (ひまなときに葉茶を臼にかけて粉にする仕事をした)


補足: 定石の別れとはいかずのこと (H16.02.09)

ここのところ何回か気力がなくて会に行かないでいたら、犬の散歩の途中で会の主催者にあった。なぜ来ないかの追及激しく、致し方なく行っても楽しくない気分をぶつける羽目になってしまった。最後は指導者がよくないということなら言うことは無い勝手にしろと切られてしまった。

私としては自分の感じている疎外感はそれとして、囲碁をやれるようにはなりたい。だからとりあえずどちらも有利不利のない定石の別れのようにしておきたかったが、囲碁の上手に詰められてしまった。


 
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