屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.62  教養についてのこと (H13.07.30)

教養とは何かと私に問われれば、それは人の品を醸し出すものであるということになる。あの人は教養があるといえば何事もお見通しだがその立ち居振舞いにやさしさと品があるそういう人を想像する。

例えばむかしの物事のけじめがはっきりしていてやさしく品が良いおばあさんの姿を思い浮かべてしまう。また時代劇などで店の奥を取り仕切る美人で品の良いおかみさんの姿を思い浮かべてしまう。学問はなくともその人生の中で人として備えるべき品をその人なりに身につけた姿を見てしまうからである。

そしてその人の品とは何かということをしばしば考えてみることがある。しかし何とは言えない。品とは感じるものである。曽野綾子がなにかの本に「人よりでしやぱらないこと、功績を人に譲ることができること、黙っていること、密かに善行をなすこと、自分の持っているものを見せびらかさないこと、などは、すべて力のない人にはできない行為なのである。そしてそれらのことが気品とか品位とかの本質になっている、と私は思う。」と書いている。

ここにいう力、それが教養ではないかと私は思っている。それは言うなれば神の前で心を秤にかけられても大丈夫、閻魔大王に舌を抜かれることはないという人間としての自信と勇気、即ち生き方の証である。

文芸春秋 2001年8月号の巻頭コラムに阿部謹也(共立女子大学長)の「新しい教養教育について」のなかで、教養科目担当教官による教養教育に問題ありと述べたその後に 「私は専門科目の担当者がその専門科目を通して教養教育を行うぺきだと思う。教養とは如何に生きるぺきかという問いに対する答えだとすれぱ、専門科目の担当者達もその学問を通して如何に生きるぺきかという問いに答えているのであって、そのことを学生達に伝えれば良いのである。どのような学問でも社会との接点をもっており、社会の中てそのあり方が問われている。専門科目の担当者達がその専門的学問を通して如何に生きているのかを学生達に伝えることによって教養教育はその実を挙げることが出来るであろう。」 と書いている。

私はこれに共感するところがあった。どこにかといえば、教養とは先達の生き方を見せることによって伝えられる面があるというところである。表に見える知識や技術ではない、先達の醸し出す品から感得するものが重要だと言っていると思うからである。

今までにもう一つ、教養について論じているのを 文芸春秋 2001年3月号 「教育再生」私の提言 東大生はバカになったか? (立花隆 他) でも見たことがある。

「その時代そのときの人類社会全体が、時代を超えて受け渡していく、知の総体がどうなっているのか。どういうふうに自分たちの世界が構成されていて、どういうふうに世界は動いていくのか、その全体像の把握が教養です。」 「基本的に、それは幅が広い常識と言っていい。そういう遺産の全体像を理解した上で、今度は自分がその相続人の一人として、どこかの部分を支えていく人間になろうとしたとき、それができるようになる基礎的な能力がまた教養なんです。幅広い常識と基礎的能力の両方が教養です。」 「教養とは知の集積」「だけじやない。実践的能力も大事です。」 「広い意味の理論能力と」 「計画能カ」 「情報能力が、社会に出る前に基本的に身につけるべき三つの知的技能ということになります。」 と論じている。

これをみると教養があると見える人は大体教育訓練されている人と置きかえられそうである。これは東大を論じている文脈の中でのことだからかもしれないが、世界のどこかの部分を支えていく人間に求められる、幅広い常識と基礎的能力それと知的技能が教養とはなんだか優秀ビジネスマンの要件のようでもある。そういう教養を身につけた人を想像しても、安らかな生活や豊かな生き方をする人が見えてこないので私にはいまいちこの説明はしっくりこない。まあいわゆる社会を牛耳る人たちがそれらの知識技能を身につけ、全てをお見通しでやさしい人になってくれればそれはそれで良いのではあるが。

補足: 人の品について話題二つのこと  (H22.03.18)

1: 横綱・朝青龍が暴力沙汰疑惑で2月初めころTVを賑わしていたとき、親方が「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言って指導していたが、いつだかの不祥事の後その親方が「モンゴルでは稲穂は出来ないらしい」と言ったというアハハ話が流れていた。横綱も問題だが親方も問題のようである。品格というのは生まれつき備わっているものではない。環境によって備わるものである。まずは家庭、そして教育、そこで品というものについての価値観が植え込まれていれば、その後の置かれた環境と立場から学んで品格が備わっていくくものである。

2: 妻が屋久島に引っ越してきて感じることだと言うことには、地元の高齢者特にご婦人に品のある人が多いということである。今もやっているかどうか知らないがどこかのTV・CMで江戸しぐさを題材にしたものがあったが、立ち居振る舞いにそういう雰囲気を感じさせるそうである。全員がそうではないが比較的多いそうである。年が若くなって来るに従い自分よがりの人が多くなる、男性の場合はそういう分布が女性より若い方にシフトしているようだということである。仕事や島外交流の影響で価値観が変化して来ているようである。


 
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