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1月11日NHKスペシャルの「認知症研究の第一人者が認知症になった」という番組を見た。この一年長谷川さんとその家族の姿を記録し続けてきたドキュメンタリー番組である。その番組を見てから、ネットで放送や本人の関連記事をいくつか見てみたのだが、以下番組と記事から私が印象に残った内容(・印)とそれに関する感想(・・印)である。感想は20年くらい前に93歳で当地で亡くなった私の父の言動と絡めて思ったことである。
・ 認知症になったら、不確かな状態がずっと続くと思っていたが、正常な状態も確かに存在し、話せないときは言葉が分からくなっているからではなく、自分の言葉に自信がなくなり、殻に閉じこもってしまうからだということである。認知症になったら、何もわからなくなるということはない。心は生きている。嫌なことをされれば傷つくし褒めてもらえばやはり嬉しい。認知症の人も自分と同じ一人の人間としての存在である。
・・ 私たちが時間をとりたいということもあって、デイケアに週に2回くらい行ってもらっていたのだが、行きたくないと言うことがあった。自分が興味もわかないことをやらされるのが嫌だということらしかった。子供を遊ばせるようにたわいない遊びを押し付けられるので面白くもなんともない。バカにされているようで嫌だということだったようである。
・ 認知症になって初めて身をもってわかったが、認知症は固定したものではない。変動する。調子のよいときもあるし、そうでないときもある。調子のよいときは、いろいろな話も、相談ごとなどもできる。ひとたび認知症になっても、もうだめだ、終わりだ、などと思う必要はない。周囲も、何もわからなくなってしまった人間として一括りにして見てはいけない。存在を無視されたり、軽く扱われたりしたときの悲しみや切なさは、つらい体験がもたらす苦痛や悲しみは、認知症であろうとなかろうと同じように感じている。
・・ 夏になってある夕食時ビールを飲んだのだが、翌朝寝糞をしていたことが何回かあった。それで以後本人が飲みたいと言っても寝糞をするからと飲ませなかった。またトイレで便を散らかしたことがあって、それを私が掃除したことがある。その様子を見ていたようで、またそういう状況になったとき真似して適当に自分で掃除し、そのとき手に便を付けたまま壁を伝い便を擦りながら部屋に戻ったことがある。トイレを汚しても言ってくれればよいと言ったのだが、自分のしたことを隠したいらしくその後も言うことはなかった。入院しているときにも寝糞をしたらしく汚れたパンツを隠れて処分しようとトイレに流し、トイレが詰まって水があふれ廊下まで流れてそれが分かったことがあった。粗相をしたことが恥ずかしいという思いはどんな時でも残っていてひとに言われたくなかったようである。
・ 認知症の人と接するときはまず、相手のいうことをよく聴いてほしい。自分からどんどん話を進めてしまうと、認知症の人は戸惑い、混乱して、自分の思っていたことが言えなくなる。他にしたいことがあってもそれ以上は何も考えられなくなってしまう。だから「今日は何をなさりたくないですか」といった聞き方もしてほしい。そしてその人が話すまで時間がかかっても待ち、何をいうかを注意深く聴いてほしい認知症はやはり、本人もそうとう不便でもどかしくて、耐えなくてはいけないところがあるから、きちんと待ってじっくり向き合ってくれると安心する。認知症の人は、同時にいくつものことを理解するのが苦手です。一度にいろいろなことをいわれると混乱して、疲れの度合いが深まる。同じことを伝えるにも、なるべくシンプルにわかりやすく一つずつ伝えてほしい。
・・ デイケアに週に2回くらい行ってもらっていたときの別のはなしだが、風呂に入れてもらうときもたもたしていて怒られていたようである。それもデイケアに行きたくないと言っていた理由の一つの様だった。父は難聴で障がい者手帳を貰っていた。また当地の鹿児島弁は私たちでも理解できないときがあって聞き返すくらいだから父には言われたことが理解できなかった可能性もある。それで担当者が何か言ってもよく聞き取れないから適当に返答したり適当に反応したりしていたのではないかと思われる。家では私が風呂に入れていたのだが、デイケアでは怒られたりするので入浴は嫌がっていたようである。それを知らず連絡票に嫌がっても風呂に入れてくれと書いたことがある。
以上、私が思い出した父の反応をこじつけてみた。放送で長谷川さんがデイケアを嫌がっていたのが印象的だった。診療をしていたころ患者にデイケアを勧めていたのは間違いだったというようなことを言っていた。やらされることに関心がない、面白くないということのようだった。いま思えば、父の場合は何にも感じないあるいは何にも考えていない人間として言葉や振る舞いは優しいが子どもみたいに取り扱われることに内心拒絶感を持っていたようである。また状況をよく見る感覚は衰えないようで、入院中にはここの看護婦は素人だねと看護婦の対応の悪さあるいは仕事スキルの低さを訴えていた。都会の病院に入院していたときと比較してのことかどうか分からないが、病院に関し言うことと言えばこれだけだったからかなり嫌な扱いだと感じていたようである。再三それを訴えていたのだが、私はむかしの気遣いをするやさしい父らしくない言葉に認知症だからそう言うのかと取り合わないでやり過ごした。だが、いま一人の人間としての普遍の感情の存在をこれに限らず受け止めていなかったことを悔やむ気持ちになっている。
(補足: 高齢者に認知機能検査とか高齢者講習はストレス)
長谷川さんが診療をしていたころ患者にデイケアを勧めていたのは間違いだったというようなことを言っていたのだが、運転免許の認知機能検査もそれを勧め定めた健常者が認知症になって、そのとき本当にそれが有効なのかと疑問を持つことはないのかと気になった。認知症のひとにも健常者同様の移動の権利を保証するために、車の機能とか社会環境の改善にもっと注力したらどうかという気になる。
高齢になって思うが、認知機能検査とか高齢者講習とか、かなり自分にはストレスである。半年くらい精神的な拘束感がある。私は運転技能があるものには年齢に限らず免許を与えることを基本にしたらよいと思っている。いま運転挙動をモニターして運転挙動に応じた保険料にするテレマティクス保険というのが販売されているが、自動車に運転免許証挿入型認知機能モニターを装備しデータを運転免許証に記録するようにし、免許更新時にそのデータと違反記録に応じ運転条件に制限を加える、最も厳しい場合は免許取り消しをする、というシステムにするのがよいという気がする。
問題は運転免許証挿入型認知機能モニターで何をモニターしどう判断するかだが、認知機能と運転挙動の関係が分かっていま認知機能検査をしているならそれは当然分かっているだろうから、さっさと法制化して欲しいものである。
(関連記事)
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