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大阪市立中学校の男性校長が全校集会で女性にとって最も大切なことは子供を二人以上産むことと発言していたことを問題視して誰かが通報したらしい。そして大阪市教育委員会がそれを不適切な発言だとして懲戒処分を検討しているというような報道があった。その後それがマスコミなどでも取り上げられちょっとした話題になっている。
私は校長の発言の事情やその仕方にはあまり興味が無い。教育的に問題があるならそれなりの対処は必要かもしれない。私は教育上のことは別にして、女性は子どもを二人は産んで欲しいというはなしそのものには関心がある。私もむかしそういうことを友人たちとの会話のなかで言ったことがある。そのとき病気を持った子どもがいる友人に産めないものもいるとたしなめられたことがある。そして私も産めない事情のあるひとにまでそうして欲しいということを言っているわけではないと言い訳したことがある。
私が思うに、女性が子どもを産むということは男性がいないと出来ないわけである。女性と男性が子どもをもうけようと決意し、また互いに子育てをしようという意志がなければ、普通は女性は子どもを産めないわけである。だから女性に子どもを産んで欲しいと言うことは、男性にも子どもを持って欲しいという意味であると、私は思っている。子どもを産み子どもを育てるのは女性と男性の共同意志によるのだが、お産は女性側にリスクがあるので、産むという話題になると女性が念頭に浮かんでしまうことになる。そして産んで欲しいという表現が出てしまうのであって、女性が産まないのが問題だと非難しているわけではない。
私は、産む女性単位で数えるのが便利だからそう言うのだが、女性は出来れば子どもは二人は産んで欲しいと思っている。産みたい女性、持ちたい男性の二人でつくる子どもだから二人はと思っている。病気などで産めない事情以外で産めるのに産めないひとがいるのも承知だが、そういうひとが産めるような世の中にすることが課題(例えば少子化対策)だということも分かっている。多分件の校長もそう思っているだろうが、産めるひとは産んで欲しい、自分の意志で産まないことを選んで欲しくないということである。仕事する喜びや自分の楽しみを追求するのを優先して子どもを産まない、持たないという選択はして欲しくないと思っているわけである。
自分が生まれて来て喜びや楽しみを味わっているなら、生まれて来てよかったと思っているはずである。自分は生まれて来てよかったと思っているのに、自分に子どもは生まれて欲しくない、子どもは持ちたくないというのでは自分の快楽中心、自己中心的すぎる。自分が生まれてよかったと思うなら、子どもを産めるひとは産む、子どもを持てるひとは持つ。そうあって欲しいわけである。そう願うひとより、仕事や楽しみばかりを追求して自分で子どもを持とうとしないひとに肯定的な発言をする有識者やそれをもてはやすマスコミなどの方が問題かも知れないのである。
私は結果として子どもが持てないのは致し方ないことだと思っている。しかし子どもを持たない権利を主張するのは間違っていると思っている。子どもを持つことすなわち子孫を残すことは生命あるものの究極の義務だと思っている。ほとんどの生物はそれを意識することなく遂行しているのだが、考える力が発達した人間は考え意識して遂行しなければならなくなってしまっているわけである。
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