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  日誌編:  No.200  
本を読む_「悲しみの秘義」 2023.02.06
 
妻がフォローしているあるひとのブログを読んでいて、数年の間に三人の親族を亡くしたひとがあるとき知り合いの医者に自分の思いを訴えたとき、その医者から紹介されたのがある本だった。そして自分の思いに通じるところにしおりを挟んでときに読み返したりしていた。最近友人から昨年連れ合いを亡くしたがやっと気持ちも癒えて来たという便りを貰ったとき、その友人にその本を送ったということが書いてある記事に出会ったそうである。妻はその本を読みたくなって購入したのだが、私もその本を読ませてもらった。


その本は「悲しみの秘義(若松英輔著・文春文庫)」という本である。裏表紙に人生には悲しみを通じてしか開かない扉があるとある。著者の味わって来た悲しみの意味を探し求めた文章を大切なものを喪ったひとに読んでもらいその悲しみの意味を知る助けになればということらしい。

著者曰く、「かなし」は、「悲し」とも、「哀し」とも、「愛し」とも書く。かなしむとは単なる悲嘆の表現ではなく尽きることのない情愛の吐露でもある。また「美し」とも書く。悲しみの奥には真の美がある。歓びと悲しみは同じ心情の二つの顔、歓愛と悲哀は消えることのない一つの情愛を呼ぶ二つの名前である。「かなしみ」が 悲痛の経験に終わらず、愛隣の「哀しみ」となり、悲愛の「愛しみ」となり、「悲しみ」の中に咲く美しい花に出会う「美しみ」となる。悲しみを生きるとは朽ちることのない希望を見出そうとする旅である。

そして悲しむに至った経緯はひとそれぞれである。その悲しみの意味を探し求めれば悲しみ通じてしか開かない扉が開くと言っているようである。悲しみについて、ひとはそれぞれの経験からその思いを語って文章にしている。それぞれの表現は違っていても、それを読む悲しみを味わったひとにその思いは届く。ひとそれぞれの表現は、悲しみのそのひとなりの一面である。だからときに読んだ本あるいは文章に読むひととは違う悲しみが表現されているのだが、悲しみを味わったあるいは味わっているひとには、そこにまだ自分の気づいていない悲しみの別の一面に気付かされる。

この本は、著者が悲しみを味わって、そして出会った悲しみを表現する本あるいは文章に出会って、自分がそこにどういう思いを感じたかを通して自分の悲しみをいろいろな面から知ることになったその思いを述べているのだと思われる。悲しみは多面的でひとにより感じる一面は異なるが、他のひとの感じる一面を知ることが出来ればより気づかなかった悲しみに気付き自分の悲しみのどういうものかも分かって来る。悲しみ方が深まるわけである。そして著者は悲しみに生きるひとにその生きる中で朽ちることのない希望を見出して欲しいと願っているようである。

そしてそのためには他者が探し求めた悲しみの意味を記したそのひとの本や文章を読むことであるということのようである。また悲しみに生きその意味を探し求め知った自分の悲しみの意味を文章にしてひとに伝えることである。それはまた他の悲しみに生きるひとがその悲しみの意味を探し求める助けになるということのようである。著者はそれらを「悲しみの秘義」と言っているようである。

補足: 思い違い_秘義であって秘儀ではない
2023.02.06
夕方になって、気になって来た。本のタイトルは秘義であって秘儀ではない。私はその違いに気付かず読みから秘儀だと思い込んで本文を書いた。アップ寸前に本を見直していたら秘義となっているのに気づいた次第である。それで本文で秘儀と書いてあったのを急遽秘義に書き直したのだが、その意味まではまだ思い及ばず内容は「悲しみの秘義」を悲しみの意味を探し求める行為のように書いたそのままにした。それが夕方になって気になって来た。「悲しみの秘義」は「悲しみの秘儀」ではない。多分、悲しみの秘められた意味を指して著者が作った言葉ではないかと思われる。


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