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  偏見ご免のたわごと編:  No.095
むかし夢にも思わなかった80歳_節目の敬老祝い金 2021.09.06
  7月の末ころ役場から封書が来た。町からの敬老祝い金をコロナ禍のなか訪問手渡しでなく振り込みにすることにしたので、同封の振り込み口座確認書をこれこれの期日までに提出方という内容だった。

敬老祝い金は80歳以上の節目の年のひとに支給しているもののようである。私は今年80歳になるのでその対象になったようである。もう亡くなって久しい父が生きていて90歳になったときもそれが節目の年となっていたようで、教育長他数名が来られて祝い金と記念品を受け取った記憶がある。

私はまだまだ祝い金を貰うほどの老人になったという自覚はないのだが、拒む理由もないので有難くいただくことにして、翌日早速役場に提出した。もし訪問があって家に上がり込んで贈呈セレモニーまがいのことになっても老人意識があまりなく老人らしく振舞うことはできないので辞退したいと思っている方だから、今回のような方法の方が私には助かる。もし運よく生きていて90歳になったときには、振り込みか訪問か事前選択が可能なやり方になっているといいなと私は思っている。

以上は、祝い金を頂くこと前提のはなしだが、私としては祝い金やそれにまつわる行事はあまり好きではない。よくテレビで100歳になったりしたひととか最高齢のひととかの家を首長などが訪問し祝うセレモニーをしているのを見るが、ああいうのは私は好きでない。いまの私としては、もしそういう年まで生きていたら周りを認知出来なくなって応対もままならぬ自分の姿を晒したくないので止めて欲しいなと思っている。いまの年の私はそう思っているわけである。

そしてまた私としては、祝い金などを貰うよりは高齢者サービスの運用費にしてもらった方が助かる気がしている。私の父のときはもう認知症だった父を私たち夫婦で訪問に対応させるべく体裁を整えたのだが、父本人は何も分かっていなかったのだからあまり意味を感じなかった記憶がある。私たち二人暮らしの夫婦がいまよりもっと高齢になって介護が必要になっても、もう子供たちを期待しないで生きなければならなくなった社会では、多分どこかの誰かにお世話になっていてるはずで、訪問セレモニーもそれらのひと達がいないとかたちを整えられないとなれば、いまの私としては訪問などは遠慮したい気分なのである。いまの私としての最大関心事は、いまも将来も日常生活に安心できるかどうかということにある。

いま集落でやられている高齢者見守り隊はボランティア活動だがよく考えてくれたと有難く思っている。集落では例年敬老会で懇談会食行事があったが昨年はコロナで記念品配布になった。私は会食には出席しないで来たが記念品は頂いた。今年も記念品を配ってくれるということである。それはそれで有難いことではあるのだが、私はそういうことをする費用を見守り隊などの活動費に当ててくれるといいなと思ったりしている。


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