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  偏見ご免のたわごと編:  No.087
オリンピック関係者の辞任や解任_過去の行為や発言が発覚 2021.07.26
  オリンピック関係者が過去のいじめ行為や不適切な発言で辞任したり解任されている。その行為や発言は問題である。何か別の主張をするために例示したつもりでも聞く側がその発言に不快を催し本心を疑われることになる。過去の行為や発言についてはこれまでのそのひとの行いなどに反省や償いを感じられないと、いまも変わっていないとその本心をさらに疑われることになる。

私は心にやましいことをやったり言ったりした覚えはある。多分誰でもそういう思いは持っている気がする。それでも誰かが不適切な行為や発言をすると自分のことは棚に上げて批判や非難をする。大方のひとはことの大小の違いがあるからと、自分のことは些細なことと目をつぶって上に立つひとを非難攻撃したりするわけである。SNSなどでの匿名的な批判・非難はそういう類が多いのではないかという気がしている。

ところで、近代オリンピックは私の思うところキリスト教精神を持った人物が提唱しその精神を理想化していまに至っているという気がしている。人道擁護や差別撤廃などに関する活動も同様だが、誰もその精神自体は文句のつけようがないのだが、その精神を行動規範にして行くなかでひとにあまりにも完全無欠の人間として存在することを求めすぎているのではないかという気がしないでもない。本心から悔い改め更生していても一生付きまとって許さない世の中になったら生きにくい。

あまりに突き詰めていけば多分、参加国そのものを初めとしてオリンピック関連団体、各種スポーツ団体などの関係者や選手全員、日本で言う身体検査を誰がするのか知らないがしなければいけなくなる。オリンピック廃止論者の私は、オリンピックをやりたいなら表向きオリンピック精神を謳うが競技の勝ち負けを競う大会に徹してやる、それだけでいいと思っている。

聖書の中に姦通罪(石打ちの死刑にされることになる罪)で捕らえられた女性をめぐってイエスと律法学者たちが対決するところがあって、判断を求められたイエスが答えて「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言ったら、年長者から始まって一人また一人と立ち去ってしまい誰も女に石を投げることができなかったというはなしがある。

私はと言えば心に照らしてやましくないとは言えないから、こういう場に遭遇したら黙って立ち去る側の人間である。そしてダブルスタンダードで平然と振舞えるほどの自信はない人間である。人生そのときの都合であっちへ行ったりこっちへ行ったりを繰り返しながら暮らして来ている軟弱者であることは自覚している。でも何も感じていないわけではない。今回はまず最初に頭に浮かんだのは、どんなひとにも偽善的側面があるということだったわけである。

補足: 
オリンピックは国別対抗戦ではないだって_それ本当か
2021.09.03
今日見たネットで、日本オリンピック・アカデミーがオリンピックは国別対抗戦ではないとIOCと組織委のメダル順位掲載を問題視して指摘したという記事を見た。その短い記事を見て言葉尻を捕まえただけのことかも知れないが、私はいまさら何という感想を持った。
開会式や閉会式で国旗をもって入場するのはどういうことか。優勝者の表彰式で国歌を演奏し国旗を掲揚するのはどういうことか。私の見るところ、オリンピックは国家間の国威発揚のため競争という一面は否定できない現実である。選手にしても、とっても小さい国から巨大な国まで、それぞれの国が政府の影響下で国の代表を選んでいるではないのか。
オリンピックを全て国家から独立し民間化したオリンピック関連団体が自分たちの努力で資金や施設を準備して開催しているなら、オリンピックの理想を言い募ることもいいと思うが、国家の金をあてにして成り立っているオリンピックなのにきれいごとを言っても始まらない。きれいごとの通りのオリンピックにしたいなら、まず初めにオリンピックの位置づけや在り方をどう変えなければいけないのか、そういう問題提起をして欲しいものである。


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