屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.322 注文が多いこと  (H21.10.26)

10月9日ビデオを見てからTVに切り替えたら「太田総理・・・秘書田中」という番組で長嶋一茂氏が心のケア授業の必要性を訴えるなかで自分がうつ病だったことを告白していた。私もときどき憂鬱になることがある。その原因は嫌なことを避けられないときである。若いときには断れない性格とわがままな性格をうまくコントロール出来ず苦しい思いをしたことは何度もある。

そういう思いに関して私がなんでかなと考えてきたのだが、あるときそのキーワードとして「注文が多い」ということに思い至った。何でかということはいろいろな表現で衆知のことかもしれないが、なんとなくむかし読んだ宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」が思い出されてその表現が自分ではぴったりな感じがしたのである。

ということで、注文の多いことについてのはなしである。いまでも私自身結構注文の多い方である。と言っても表立って注文するわけではない。自分の意に沿わないことはなるべくしないし、気に食わないことをする人からは距離をとる。そしてその選別間口は狭い。年をとってきてからは義理を欠くことはかなり気にしないようになったし、嫌なことは我慢しないようになった。つまり自分の注文基準があってそれにあわないとなるべく避けるのである。私の注文はフィルターのようなもので自分が積極的にかかわるべきものを選別しているだけである。だから他人に注文が多いと気づかれにくいと思っているのだが、妻に言わせれば、好みがうるさいので気をつかうということである。

さて私の注文のことである。物や事柄も人の意思によって決まるので人のこととして以下の例を取り上げる。私の注文の主な中身はと言えば、表立っての注文の多いやつが嫌いということである。特にひとのためのように装ういながら結局は自分の都合のよいようにひとを動かそうとするやつである。本人がそれに気づかず自分の正しさを信じ熱心だと手に負えない。正論というかこちらへの好意というかそれで押してこられると反論や反発しがたい。そしてこちらの意に沿わない筋書きで動くことを強要された感じになる。そういう注文の付け方をするやつがたまらなく嫌である。こういう手合いはひとを憂鬱にさせる。

その次の私の注文のことだが、周りに注文を付けすぎるやつは嫌ということである。自分がわがままだという意識がないし他人にも注文があるということに気づかない。相手を思うやさしさがないやつである。こういう手合いは家庭では支配される家族は不幸になるし職場では軋轢を生みやすい。そして思い通りに行かない当人は妄想的被害者意識や不安で憂鬱になりやすい。

むかし読んだ「注文の多い料理店」では、なんでも金銭でその価値を計るなどする心性の卑しい人物が猟に入った山中で迷って弱った犬も見捨てた後に見つけた山猫軒という西洋料理店に入る。その店では客に何をしろ何をしろとどんどん注文を付けてくる。その数々の注文を全て自分に都合のいいように解釈し従っていって、それが山猫が客を旨く食うための下準備だったと気づいたときには逃げようとしてもそれができない。そして恐ろしさのあまり顔は紙くずのようにくしゃくしゃになってしまう。最後は損得と身勝手で見捨てたはずの犬に助けられるのだが、その顔は元に戻らなかったというはなしである。

しかし童話と違って私が嫌なやつとして挙げたような偽善者やわがまま者が付ける注文の真意が分ってもひとは恐れで顔をくしゃくしゃにはしない。ひとは期待に添えなかったことを悲しんだり反発をするわけである。そこへ注文を付けられる側の犬が助けに飛び込んで来たら多分ひとの方は慰めてくれると思うが、注文を付けた側をどうやっつけたり扱ったりするのだろうか。

私が経験的に思うに、はじめの例では親しいものが苦しみから変調を来たしその影響が及んで来たあと自分にやさしさが足りなかったことに気づくことになる。次の例の場合は自分が被害妄想や不安に苦しみ変調を来たしたあと周囲のやさしさを知ることになる。いずれの場合でも自分のこと第一からひとにやさしく考える生き方に変わる必要があるということのように思える。多分注文を付けられる側の犬でもそうさせてくれると思われる。


 
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