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自民党の総裁選で菅氏が目指す社会像として自助・共助・公助と絆と言っていたが、その言葉尻を捉えてのはなしではある。私はこの中での共助の説明に家族と地域でと言っていることに違和感を感じている。日本が経済発展してきて以来、家族という概念はかなり核家族に移って来て、むかしのように家族が寄り添って助け合う環境でなくなって来つつあるというのが私の認識である。
家族というと、私は親と子どもをまず最初に思い浮かべるが、いまの時代子どもが学校を出たら親と離れた場所で働くようになることが多いように思える。そして結婚して自分たち夫婦とその子どもが新たな家族を構成して生計を立てる。その夫婦の親たちは彼らと離れた場所でそれぞれ家族として暮らす。親たちもその子供たちの家族も離れて暮らしていて助け合うというのは経済的に相当の余裕のない限り無理である。
親と子の家族が一家族として生計を共に出来るということは、同じ場所あるいは地域に働く場所を確保していないとなかなか出来ない相談である。そういう家族ばかりが代々続いていたならいまの社会は成立していない。社会は核家族を前提として子が成人すれば全国にちりじりばらばらに住んでそれぞれが生計を立てるのが前提に動いていると見るのが当たっていると思われる。
共助は家族でというのは気持ちの上だけのはなしで、経済的にも物理的にも無理筋になりつつある。私は社会像としては家族は生計を同じにしている親子とし、独立した個人は別家族であるというように、家族とはそれぞれの核家族を単位であるとして描く必要があると思っている。別れてそれぞれ核家族になった核家族間で共助という考え方は経済的に恵まれた限られた核家族間でしかもう成立し難いと思われる。
いま、社会は個人単位、核家族単位という時代に入っていると思われる。気持ちとしては血のつながった家族というのは特別な概念だが、政治的あるいは経済的にはその家族という概念を適用する時代はもう止めて、税制とか福祉とか行政は個人単位、核家族単位の新しい社会システムに移行して欲しいと私は思っている。つまり共助・公助について言えばその認定対象範囲は個人単位および世帯単位にして欲しいわけである。また地域の共助は地域的公助として国家的公助の地域版ということでないと恣意的運用の心配がある。地域の共助は善意を期待という意味なら困る。
補足: 菅首相が日本学術会議の会員に6名任命せず_報を聞いての第一印象
2020.10.02
日本学術会議の会員について、推薦された人のうち6人を菅総理大臣が任命しなかったことがメディアなどで問題として取り上げられている。その理由はそのうち明らかにされるのかも知れないが、私がその問題だという報道を見ての第一印象は、その6人が中国や韓国など他国から研究費名目で金をもらっていて、それらの国に都合の良いような言動をしていたのではないかというものである。テレビなどで大学教授のような人物で他国の代理人みたいなことを言っているのを見ると、その国の工作員かという気がしたりする。中国や韓国など外国にそういう人物を養成するために予算を使っているというはなしもある。ただ学問という視点からだけこの問題を見るのはおめでたいはなしかも知れない気もしている。
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