屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.31 老後不安のこと (H12.12.17)

今の個人消費停滞の理由を老後の不安などと政治家が言っているのを聞くがその不安とはどういうものか。人それぞれ不安の内容は異なるだろうと思うが以下自費医療や介護が望み得ない私の不安を亡くなった父の介護や医療の実態を介して感じていることから書いてみたい。

1.病気入院で感じたこと

病院は入院するとすぐ患者本人から聞き取りをする。ボケが入って患者がまともに受け答えができなくても、長年一緒に暮らしてきた家族の経験している患者の行動性向を聞く耳を持たない。心配でメモにして渡してもそれを読んで介護・看護に生かそうという気がない。というか自分たちで確認していないことは考慮しないようにと教育されているように見える。ボケている本人からの情報の過信は危険だと思うのに、またボケている程度の判断がすぐつかないのにこのようなことが多い。

何十年も介護している人の言うことを聞かず何たることかと憤懣やるかたがなかった経験がある。父の例である。鹿児島の病院に入院したことがある。入院に際しはじめに聞き取りにきた看護婦にボケが入っており思いもつかぬおかしな行動をする、難聴で障害者手帳を持っているくらいでニコニコうなずいていても大体解っていないことが多い、その他こういう傾向があるというメモを渡して注意方依頼した。

何日かしたら病院の医師から電話があった。ベッドの後ろの柵を乗り越えようとして頭から床に転落した(注:多分ドアに一番近い経路を直進しようとした為と思われる)。CTで頭は異常ないが足が浮腫んでいるから生命が危ないかもしれないと言う。

注意するように依頼してあるのに無視されての結果のようである。足はむかし胃癌の手術をして以来十数年浮腫んでいる。入院時も浮腫んでいた。だから私はそんな心配はないはずだ。今までと変わらないから大丈夫と言って電話を切った。結果は何でもなくたんこぶだけですんだ。後日病院に行ったときメモを渡した看護婦は苦笑いしている。医師や看護婦たちにメモが伝わっている形跡はない。

2.特養入所申請で感じたこと

昨年93歳の父が亡くなった。そこに至る経過途中で痴呆症状や入浴排便などで負担を感じるようになり父の特養への入所を検討した。役場から手続き資料をもらって見たところこれではなるべく受け入れしないようにしているのではと思わざるを得なかった。

それは扶養している私は言うに及ばず遠く離れている入所対象者の子と孫までの系統図とそれぞれの収入証明をつけることになっていたからである。何十年も離れて住み思い出だけで繋がっているような関係まで自分で全て資料を集めなくてはいけないと言うのは驚きである。対象者とその同居家族のものだけでよいのではと思わずにいられなかった。

日本の社会形態は現在夫婦単位の家族の独立即ち核家族化を前提としている。それなのになぜ対象者本人の事情だけで受けつけられないのか。行政に対する不信と不満を感じざるを得ない。私は資料を見た途端絶望的な気持ちになってしまい特養入所を検討する気をなくしてしまった。父はその後1年もせず亡くなった。

3.介護・医療の施設利用で感じたこと

父は亡くなる1年前くらいから肺炎を一ヶ月おきくらいに繰り返しそのたびに入退院した。病院に継続入院できないのか聞いても取り合ってもらえず、三回目になって、かなり弱っていたからかそのときの医師がたまたま今までと違う人だった為かやっと療養型病棟へ入れてもらった。その数ヶ月後に父は亡くなった。

もう死ぬしかないなというようにならないと長期的療養介護の対象にならないのが病院なのではと悲しくまた悔しい思いを感じた。でも特養と比べて病院は本人が具合悪ければ家族縁者をただすこと無く受け入れてくれる。それはありがたいと感謝している。

通常介護者つまり同居の家族は切羽詰るまで努力する。これは前提である。だから申し出があったら初めは受け付けたら即入院あるいは介護施設に入所させてほしい。それが可能な施設整備をして欲しい。利用者から見れば介護施設も病院のように対象者の具合だけで施設入所が即できなければ困ったときの役にはたたない。

即入院あるいは入所をと強調するのは、家族がいくら訴えてもその程度や大変さを受け入れ側が一見しただけでは判断できないと思うからである。さらには対象者本人が自分だったら同居者(配偶者)にこれ以上負担をかけたくないと思う日が来る。その思いを果たしたいからである。

4.私の願う介護保険あるいはシステム

同居家族や縁者があってもその支援が無いものとした場合に一人暮ししたら死んでしまう具合の人は環境の如何にかかわらず全面介護を前提にしてほしい。日本は核家族化を促進する国家経営をしてきた。経済面で縁者はないものとしなければいけない。これが原則である。そしてこれからは配偶者くらいしか同居家族はいないことになる。配偶者に苦労をかけたくない。配偶者にはゆったりとした生活をしてもらいその都合にあわせて面会にきてくれればそれで良いと私は思っている。そのほうが多分安心と幸せを私は感じると思う。

私は家族の手にあまり家族または自分が望んだときは病院のような施設に自分の具合のみで長期治療介護のため即入院したいと思う。そして家族の有無や支援を当てにせず単純に自分では一人暮しを出来ない具合であると判断されるときは退院させられたくない。長期療養型の医療介護を死にそうに成るずっと前から受けたい。そして残りの生を施設にあっても楽しみたい。

それが達せられる介護保険であり介護施設であって欲しい。健康保険のように自分の望む土地の施設に行って最期を迎えられる、そういう介護システムにもして欲しい。世話にはならずとも子や孫のそばで死にたいと思う人はいる。

介護保険あるいはシステムの最大の目的は気持ちよく死んでいけることにある。私はそう思っている。そこから出発してシステムを作り上げて欲しいと切に願っている。その為の今より多く介護保険の負担をする覚悟はある。

5.まとめ

ホスピスという所の実際を良く知らない。以下イメージで言っている。私は自費医療介護を選ばないあるいは選べない老人について、同居者の有無を問わず本人自身が一人暮しができない具合になったら、家族縁者の経済的支援を前提とせず即ホスピス暮らしが出きるようなシステムをつくって欲しいと多分言っていることになる。

それが可能でなさそうだから老後が不安なのである。妻も私がいなくなって病気になったらどう扱われるか、それが不安であると言っている。


 
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