My logbook : 屋久島方丈記 
Home > backnumber目次 > 記事  
  日誌編  ・ 偏見ご免のたわごと編  
  たわごと編: No.431  
  2017.10.23 教育費無償化_人材の序列がなくなることはない  
 
  10月22日の衆議院議員選挙に向けての議論で教育無償化も一つの主張として取り上げられていた。以下、教育無償化という言葉からの私の極端な感想であるが、社会の貧富の差とか世襲とかによる経済格差の影響を教育制度と社会保障で解消しようとすることは本当に大変なことで、人間の欲望をどう適当なところに落ち着かせるかということになるのだが、まあ中途半端なところで手を打ち続けることになるのが落ちである。

単純に言えば、何もない田舎の貧しい家の子どもが能力が優れているかどうか見つけるのにどうするか、そして優れていたら何でもある都会の裕福な家の能力が優れている子どもと同等に張り合えるようにするにはどうするかが課題である。私はそのための政策実現は難しいと思っている。国家体制にまで論議を及ぼさない限り中途半端な手打ちになるだろうと思っているわけである。

さて、昨今言われている教育無償化のことである。私は教育無償化の目的は、経済的理由で教育機会が得られないことをなくそうということだと理解している。私は子ども自身が自分を教育しようという気がないならばそれはそれでよいと思っている。教育するしないは自由だから、無償化の恩典を自分から受けなければよい。しかし貧困家庭などの理由で自分を教育することを思いつかない子どもについてはその意欲を喚起する策も必要である。社会で子どもを育てる、例えば無償全寮義務教育施設も一案である。

もし子ども全員が同等の教育を受けたとしても、全ての子どもが教育を受けるということは、その教育の中で明示的かあるいはそうではなくとも序列をつけることが必要になる。これは能力を公平に見る観点からも必要なことでもある。勿論序列をつける制度や組織や携わるひとの公平性問題の解決も必要だが、それが十分あるいは不十分でも序列は付けられる。そして社会で低賃金から高額収入までどの仕事に就くかはまずはその序列を前提に人物評価もして選別されて行く。

世の中の最も汚い仕事でも誰かがしなければ世の中は回らない。全員高等教育を受けることが前提の社会になったとしても、その教育を受けたその中の誰かがしなければならない。しかし全員が高等教育を受けることは非現実的である。だから高等教育については本当に高等教育を受けるに足る人物かの選別も必要になる。この選別は富裕家庭の子どもであれ貧困家庭の子どもであれ能力により公平に選別される必要がある。

公平性という観点からはそう考えるのだが、しかし選別は高等教育に限らないことを知るべきである。まず無償化の幼児から高校まで義務教育についてである。この場合貧困家庭の子どもの学習環境を富裕家庭と同レベルにする必要がある。勉学環境、例えば場所的環境、学習時間、課外学習の機会、教育資材などに差がつくと、子どもの自分を教育したいという意思があっても能力や努力に見合った成果が出ない。

しかし経済的に差がなくなったとしても、子どもの中では能力と努力の成果には差が出て来る。富裕層・貧困層の差別なく序列化されることになる。その結果で例えばクラス分けや飛び級など選別は行われる。そうでなくては公平性は確保されない。そしてその序列によりその後の進路も自分の意志で選んでいくことになる。あるものは高等教育へ、あるものは別の道へと進むことになる、

高等教育は子どもに自分を教育したいという意思があるものに提供されるものであるから、それを希望する子どもに対し高等教育機関つまり大学などを受験するまでンハンデをなくす必要がある。貧困家庭と富裕家庭で経済的に差がつかないようにするには、例えば場所的環境、学習時間、課外学習の機会、教育資材などで差がつかないようにする必要がある。地域格差や教育機関あるいは学習塾や予備校の格差も経済的理由によって回避できないとすれば、回避のための費用の無償化も視野に入る。

高等教育を受ける段階では自分の意志で選んだという観点から、私は奨学金が妥当だと思っている。高等教育を受けないものとの間の公平性、高等教育を受けさせないことのない公平性の観点から奨学金の返還とそれを受けないもへの還元の調整が必要になるかも知れない気はしている。社会へ出てからは自分を教育して来た結果はその後の努力と成果により評価される。

例えば上記のように経済格差の影響をなくすように教育がなされるようになったら、育った家庭が同レベルだったもの同士では自分たちの経済レベルは能力の違いが反映されたものになる。能力格差イコール経済格差になる。貧困家庭に生まれ能力に恵まれないケースでは能力による経済格差の世代間連鎖は残るかも知れない。ただ教育機会はいわゆる教育無償化により経済格差による影響は受けないとなれば、経済格差の許容範囲あるいは賃金配分がどのようになされるかが問題になって来るかも知れない。また能力による経済格差以外は公平性がないとなれば富裕層の世襲も問題になって来るかも知れない。

教育無償化を突き詰めていくと社会が以上のような状況になるのではと私は思ってしまうのである。ところで一方、私は完璧な公平性を前提の世の中は競争心や向上心などを持った人間の当たり前の生き方から見ても住み心地が悪いだろうから実現は難しいと思っている。人間の欲望を抑えるとしても全てを杓子定規に公平化することは出来ないから、適当なところに落としどころを決することになる。教育無償化でさらに青は藍より出でて藍より青しということが期待できるが、一方では鳶が鷹を生むというような状況が消滅することはないかも知れない。


(関連記事)
屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編:
  No.38  教育のこと  [2001(H13).02.05]
屋久島方丈記・偏見ご免のたわごと編:
  No.139  遺伝と外的環境半々で性格が決まるとか  (2012.12.24)
  No.258  教育費高騰と借金あるいは奨学金返済地獄  (2014.12.22)
  No.451  私の思う教育費無償化とそのための財源  (2018.03.12)
. 
 
 
back
「My logbook : 屋久島方丈記」は、「 My logbook : 屋久島生活の断片」の
日誌編 と 偏見ご免のたわごと編 の 継続版です。
My logbook : 屋久島生活の断片」の ご案内
日誌編 と 偏見ご免のたわごと編 (2010.05.31までの記事)
屋久島釣り場案内
妻関連の「SpinCom」と「SpinCom Gallery」