My logbook : 屋久島方丈記 
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  たわごと編: No.143ap  
  2013.07.07 嫌われる悩ましさと他人行儀  
 
  私は自分のこどもと上手くコミュニケーションがとれないと感じている。私が真実を知りたくてなにか問うとはなしが本論に進まず被害者意識でかすぐ非難していると感情的に問うこと自体に反発されることが多い。こどもの言うことを受け入れその通り動かないと会話が成り立たないようで苦痛でだった。いまでもこどもは自分たちの感情を親にぶつけるが親は自分たちに感情をぶつけることを認めていない感じである。自分たちが親を憎み嫌ったりするように親も自分たちを嫌ったりすることがあることから目をそらしている。

いつもは憎み嫌い悪口を言い他人にも嫌な親だと言いふらし断絶の言葉を口にする疎遠な関係を続けて来ているのに、よんどころなく何かして貰いたいことがあると猫なで声で頼みごとをしてくる。感情的には面白くないが我慢して言うことは一応聞いてはっきりしないところを問うと、被害者意識でか非難していると受け取るのか感情的に問う行為自体に親のありようを非難されることが多い。言うことだけを信じて言われることをしてくれというわけである。何をいまさら、憎まれ嫌らわれて傷ついた親がすんなりいままでの気持ちを水に流して、こどもの思いだけ通すような気分にはならないのである。

ひとにそれぞれの思いがあることを理解せず、親きょうだいを怒鳴りつけ恫喝し泣き喚き自分の思いを押し付けようとするコミュニケーションの嫌な記憶は消えないのである。私は子どもとの関係を感情的にならず平静に保つために他人行儀でいくことにあるときから決めた。子どもとのコミュニケーションは年賀状のやりとりくらいである。私はそれでいいと思っている。こどもは親に迷惑かけないようにと何も言ってこないものと思えばよいし、親としてはそれこそこどもに迷惑かけないようにしているわけである。

かつてこどもに能なしと言われあるいは相談する相手とみなされないで20年くらいは経っている。こどもがダメ親と言っているだろうことはこどものつれあいや周辺のひとたちの気配で察してきた。こどもがそれでいいのならとじっとして来たのである。ただそういうふうに切り捨てたダメ親を自分の必要なときだけ簡単に動かそうとしてもダメである。他人に対するように礼を尽くして当たってきて欲しいわけである。切ることが出来ない親子関係だからこそ、親しき仲にも礼儀ありなのである。そしてそれは自分がやることが当たり前のことだと思ってそうでないひとを責めることが、自分の思い込みによるものでありひとには当たり前でないことを知ることから生まれるわけである。

このはなしは、自分がなぜ子どもを嫌う面があるのかとその理由を一方的に考えてみたものであるが、子ども側から見ればまた私を嫌う理由があって多分私がいまそうかと思っている子ども側の理由とは別の面があるのかもしれない。そしてそういうことを話し合えるようになるには時間がかかりそうだし、そういうときは来ないかもしれない。外観的には一見波風の立っていない親子関係がこれからも続くのだと思われる。


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