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4月中ごろにあるブログで「自分のためだけに生きる」ことについて論じている記事を見た。「自分のためだけに生きる」の意味は「集団の恩恵にはフリーライドしつつ、自分は一切そこにコミットせず、徹底的に利己的に生きる」ということのようである。そしてそういう生き方を貫くには才能が必要で、他人の視線や評価に左右されない精神的自立、そして深い自己理解が必要不可欠であり、それは孤独や葛藤を伴う長いプロセスを経て身に就くものであるということである。
要は、ひとのことは気にせず、自分がよければよいと自分のやりたいように生きるには、才能がいるということらしいが、社会は他者と共に生きることが前提で出来ており人のために生きるというのが最も確実で飽きの来ない幸福の形でそれが生き方の王道だとも言っている。そのブログでは自分のためだけに生きる生き方をするひとをその才能を持ったひとだと肯定的に見てはいるが、結局はひとのために生きるのが人の王道なのだと言っているわけである。
私が思うに、自分だけのために生きるのがよい意味での才能かどうかは怪しい。人間は自分だけでは生きられない。それを理解せず自分だけで生きているような錯覚の中で生きているだけではないのか。社会もろもろにはコミットせず自己満足で徹底的に利己的生き方を貫く、そういう人間は欠陥人間ではないのか。そして本当にそういう生き方をしているならそれは欠陥人間だが、「自分のためだけに生きる」と言っている人間はただそれを貫いていると見せかけて生きているのが実際の姿ではないのかという気がするわけである。
そのブログでは、社会は「他者と共に生きる」ことが前提だとある。私の思うその意味は自分一人では生きて行けないからみんな互いに誰かのために役立つことをして補い合って生きていかなければならない。つまり世の中はみんなが互いにやれる仕事をそれぞれやって、みんなでなら生きて行けるようになっているということである。自分がどうして生きているかを知りながらその意味を理解せず「自分のためだけに生きる」と言っている人間がいるなら、それは「他者と共に生きる」のがこの世にもかかわらずそれを知らぬ振りして粋がってただ「自分のためだけに生きる」ことを貫いていると見せかけた生き方をしているのが実際の姿ではないのかという気がするわけである。
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No.099 なぜ勉強しなければいけないのか_生きるために責任を果たす (2021.09.20)
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