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  偏見ご免のたわごと編:  No.241
読書雑感_「なぜヒトだけが老いるのか」  2023.07.31
  「なぜヒトだけが老いるのか(小林武彦著・講談社現代新書)」という本を読んでの雑感である。ヒトがなぜ老いても生きて行けるようになったのかについて、私は人類は知見を蓄積しながら発展して来たのだがそうすることが出来る余裕のある社会を形成するに役立つからということだろうと漠然と思っていた。幾分かは当たっているのではないかという感じがしている。

さて、私が本書から教えられたことである。本書では「ヒト」とは生物種としてのホモ・サピエンス、「人」とは社会の中で生きる人のことと区別して使っているので本記事もそれに倣って書いている。本書では「なぜヒトだけが老いるのか」について簡潔に書いているページがあって、そこには「死を意識し公共を意識するためです。死は何のためにあるか。それは進化のためです。進化は何のためにあるのか。それは私たちを含めた地球上のすべての生物の存在理由なのです。」とある。

その説明として私は以下のような記述が理解しやすかった。ヒトは家族を基本とした集団の中で進化しその結束力を武器として生き残って来た。個人としては共同体に貢献できるヒトが選択されて生き残って来た。そして、ヒトは誰かから生きるすべを教わらないと一瞬にして原始時代に戻ってしまう。つまり、ヒトは教育によって人になるのだということである。

そして、その教育の役割を担ったのが「シニア」である。ここで言うシニアは集団の中で相対的に経験・知識、あるいは技術に長じた、ものごとを広く深くバランスよくみられる人を意味している。そのシニアの役割を果たせるようにヒトは生殖可能年齢を過ぎても生きて行けるようになった。すなわち、ヒトが老いた後も生きることが出来るように進化したということである。ただ老後を生きられたすべてのヒトが必ずしも人としてシニアになれるわけではない。

また、進化とは遺伝子が変わっていく過程だが、それは新たな遺伝子を持ったヒトの誕生とそれを生み出した遺伝子の死滅つまり前の世代のヒトの死によってなされる。前の遺伝子がそのまま残っているということになれば進化していると言えないからのようである。そしてそれが、「死は何のためにあるか。それは進化のためです。進化は何のためにあるのか。それは私たちを含めた地球上のすべての生物の存在理由なのです。」ということの意味のようである。

本書に書いてあることを以上のように私は読み取ったのだが、それを知っても高齢まで生きている私としては、自分の死が人類の進化に必須だとして死について平然としていられる心境にはなれない。老後を社会への貢献に捧げて幸せを感じて死ねる心境にはならないわけである。老後を生きられたすべてのヒトが必ずしも人としてシニアになれるわけではないし、なれない私はシニアとしての役割を果たすほどにこの社会での重みはない存在に終わるわけである。

特に私が印象に残った一つにシニアは集団の中で相対的に経験・知識、あるいは技術に長じた、ものごとを広く深くバランスよくみられる人がいまの日本で育つのかということについての意見があった。いまの日本の雇用慣行などの環境下では継続的に長期に仕事に携われず、高度なレベルを究める「シニア」が育ちにくいのではないかということである。日本の競争力は低下してきているらしい。

またもう一つに、国をまとめる政治家についての意見もあった。政治家は、いろいろな人の利害関係がよくわかり、それらを調整できる「シニア」が適材である。極端な理想や現状の批判だけを掲げて当選する政治家もときどきいるが、その後の始末が大変なことになっている場合がある。政策はもちろん大切だが、刻々変化する情勢の中で、適切に判断していく能力・経験・知識と人を説得できる人間性を持った人を、政治家に選ばないといけないのではないかということである。そういう観点からは、選ぶことは出来ないそのひとが志望してなっていると思われるジャーナリスト、有識者、言論人なども刻々変化する情勢の中で、適切に判断していく能力・経験・知識と人を説得できる人間性を持った人でないといけないと考えてもよさそうである。


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