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  偏見ご免のたわごと編:  No.211
動画ブームみたいだが_文字情報の存在あっての世界  2023.03.16
  私はウェブサイトとそこでの記事を紹介するブログをやっている。外から見ればブログ記事があってそのアーカイブがウェブサイトみたいな感じになっている。ブログはあるネットサービス会社の無料サービスを利用しているが、ウェブサイトは自分のPCで作成し有料サーバーサービス会社を利用しアップロードしている。

そしてそのサイトの元ファイルすべてを自分のPCに保管している。外付けのメモリー2ヶにもバックアップしているからPCが壊れたりしても全ファイルは消えてなくならないと思っている。自分が生きているうちは存在しているようにしたいと思ってやっている。

ウェブサイトの全記事は文字・文章と写真で構成されている。ところが、最近のネットでは文字と写真に替わって動画で伝えたいことを伝える風潮が強くなっているような印象がある。しかし私は私のようなものがする伝達媒体として動画は好きでない。ただし時間に意味があるアートや科学などに類するものはその限りではない。

私の書くようなことを動画で流しても時間がかかって自分でも見ないという気がする。時間を有効に使えるのは文字・文章主体で写真があれば写真もといういわゆる静的コンテンツである。一瞥して要点や主張を把握出来る可能性が高いからである。実際の姿を知るあるいは知らせるに写真では無理なときはそれを短い動画に替えるくらいでよいという気がしている。

ということで、私は写真付き文章のブログやホームページ擁護派である。多分、いま動画を見ることに多大な時間を費やしているひと達は、倍速で見たとしてもそれで得た知見とそれに費やした時間を考えるとタイムパーフォーマンスは比較的低く、そのうち自分の人生の時間を浪費しているとに気づくことになるのではないかという気がしている。

学校の授業は過去の知見にどう対峙して行けばよいかを教える役割もある。そして実際の過去の知見の蓄積は文字・文章と図・写真で受け継がれている。全部動画では時間がかかって受け継ぎ活用あるいは発展させるには時間がかかってどうしようもないから、動画利用は限定的になっていると思われる。それに加えてどうでもよいものあるいはいっときの楽しみにも倍速であっても動画に時間を費やしすぎるのは本当に人生の時間を浪費してしまうことになるのではないかと気になって来る。

また、ライブの場に居たり動画を視聴していると目の前ですごい立派なことを言っているように見えても、文字・文章にして前後の主張やはなしの展開の整合性を確認できるようにしてみると、辻褄の合わないことを言って、自分の主張を正当に見せかけている似非論者は結構いる。動画や言葉だけでは初め見聞きしたことより終わりの方で見聞きしたはなしが印象に残ってなるほどとごまかされてしまうことがあって、そのはなしの前提と辻妻が合わないおかしな論理に載せられてしまう危険がある。

私はそういうような認識が芽生えて来るのではないかという気がしている。そのときいっときの楽しみに時間を浪費しまくるのもそうだが、蓄積された情報を知る手段として動画を利用しまくるのは問題である。それらは時間を浪費させるから必要なものに限定的に利用しないと中身の濃い人生を捨てることになる。時間に意味があるアートや科学などに類するものに加え、文章を検証する証拠としての動画の存在意義を否定するものではないが、人生のタイムパーフォーマンスを考えた方がよいと思うわけである。私はネットの潮流はそれに気づいて動画偏重志向から距離をとるひとが主流に回帰するのではないかという気がしている。


補足: 
やはり紙資料_パラパラと大事なところを探せる
文字情報主体の資料はこれからはデジタルで保管するのが主流かと思われる。資料を探したりする場合はそれが有効な気がするが、気になる内容、探したい内容部分を見つけるにはデジタル化された資料は不向きな感じがする。一瞥して全貌が直観的に把握できたりパラパラめくって気になるところを見つけたり、大事なところだけパッと見つけたり、読み返したりするには紙の資料が向いているように思える。資料によっては印刷して読まないとなかなか有効に使えないことはある気がするし、そういう意味では紙の本もなくならない気がする。


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