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  日誌編  ・ 偏見ご免のたわごと編  
  たわごと編: No.574
 
  2020.03.23 親の七光り気にするひと_利用できるものは利用したら  
 
  知人から聞いた話である。私の知人の知人が言っていたという又聞きのはなしである。その知人は有名な人物の子でそれなりの仕事をしているひとと付き合いがあって、あるときそのひとが親と同じ世界に入ったら周囲から親の七光りと言われたり注目されたりすることを苦に思っているというような愚痴を漏らしたことがあったそうである。そのとき利用できるものは利用してよいのでは、あとは本人次第なんだからとその知人が言ったらそのひとはほっとした顔をしたそうである。

私も思うに、親の七光りを利用することは、科学などで先人の成果をもとに先人が作り上げて来た成果の上に新たな成果を積み上げて行くことに似ている。先人の教えを受けず見様見真似で新たに取り組むというのでは原始時代と同じように生きろと言うに等しい。能力に応じて教育を受け過去の成果の上に新たな知見を築くからこそ、人類は発展してきたわけである。だから利用して新たな成果を出せるならそうすればよいわけである。

七光りと言われる子は親を選んで生まれたわけではないから、七光り問題の源は親がどういう親であるかということにある。能力あるものすべての子に利用できる七光りの親がいるわけではないことである。それが分かっているから親の七光りと言われて苦に思う子もいるわけである。私が思うにそれを軽減するのは親の生き方にある。親が七光りを自分の子以外の子どもにも当てる度量があれば、親の七光りと子がやっかみを受けることはないあるいは少なくなるかも知れない。

むかしのはなしかも知れないが、田舎の分限者が郷土の優秀人材を支援して中央であるいは郷土に戻って活躍できるように育てるはなしをよく耳にした記憶がある。件の有名人にはそんなに経済力があるわけでもないと思われるから、優秀な人材に引きがあるように紹介・口利きをして自分の子と同じような機会を与えてやるくらいだと思われるが、多分それはやっていそうである。

親の七光りで自分の子だけに光を浴びせて喜ぶ親とそれを当然とする子であっては困る。しかしそれなりの子なら、親が他人の子どもにも光を当てる度量があってもなくても、親の七光りを恥じることはない。その親の七光りを利用できればそうしてその親を超える人物になれば良いのである。それでこそ人間としての質も時を経て磨かれるものと思われる。なれなければ淘汰される。人類の人間としての質もそれに似た経緯で歴史を経て磨かれて来たのかも知れないのである。


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