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まず一冊目は「琉球独立宣言(松島泰勝・講談社文庫)」である。私がこの本を読んでまず思ったのは、いまの韓国の反日とよく似た心情の反日が根底にあるのではないかということである。独立を唱えるに至った背景の説明が「なにしろ日本がー・・・」と言っている印象なのである。過去の歴史は当時の時代背景があってのことだから、その歴史の結果としての現在を過去を持ちだして変えようというのは、通用しないのではないかという気がする。
琉球民族という考え方にも私はあまり納得しない。民族とは何かということだが、人類発祥してから住む場所や環境からそれぞれがそうすることが自分たちのためになるという風に考えた生き方や行動規範みたいなものを共有して来た集団ではないかと私は思っている。広域化する中で発展してきた歴史の結果の現在においては、地域の伝統は尊重されるべきだが地域の意志で淘汰されるものは淘汰されていくのは致し方ない。私は地域のアイデンティが尊重されている日本の中で沖縄だけが別物だという感覚はないので民族を主張し過ぎるようで違和感がある。
日本への恨み感情と現実問題をないまぜにして、沖縄でいま何が問題でそれをどう解決しようかということより、心情が満たされれば沖縄の問題が解決されるのだという主張のようで私にはしっくり来ない。沖縄でいま何が問題でそれを解決する解がなぜ一足飛びに独立なのかということがしっくりしないのである。独立した暁に自分たちが権力を握り、自分たちの思っているようにしたいという底意があるのではないかという感じもするわけである。
そしてもう一冊の本を読んだのである。「沖縄の不都合な真実(大久保潤、篠原章・新潮新書)」である。この本は沖縄の基地問題の本質と著者が言うところについて論じた本である。これによれば、いまの沖縄の問題はいまの沖縄支配階級層の振興予算は獲得したいが誰もが否定しがたい戦争なき平和をスローガンとした基地反対という矛盾した姿勢に政府も乗って、基地を押し付けられている沖縄とそれを慰撫する政府という被害者が加害者に依存するようなかたちに相互がもたれて続いてきた。そして沖縄支配階級層は振興予算の分配により沖縄を支配してきたということのようである。
沖縄の支配階級層というのは一般県民より大幅高給取りの公務員や企業や地元メデイアの経営者や職員その他有識者ということらしい。彼らが基地反対を唱え振興予算の分前に与る体制を変えないかぎり沖縄の基地問題はなくならないし、つとに言われている沖縄の貧困問題も解決されないというようなことのようである。現実的には沖縄は、政府と協力しながら基地をいかに減らし貧困層をいかに減らしていくかという問題に取り組むしかないのではないかというように読み取れる。
ここで初めの琉球独立のはなしがしっくり来ない理由に戻るのだが、独立をいう有識者層はまずそういう問題に取り組むべきと思われるのに、有識者層も沖縄の支配階級層だから独立と言って政府をゆすり振興予算の分前に与る自分たちの既得権益を守る側に立っているのかも知れないという感じがしてしまうからである。
支配階級層の大物でもある翁長知事は当選当時沖縄に振興策はいらないと発言したようである。そしてまた最近翁長知事は沖縄独立論には否定的発言をしているようである。いわゆる振興予算分配による沖縄支配階級層とは異なる考えを持っているかも知れない。私は沖縄の支配階級層の実体が振興予算分配による権力の維持にあるのか沖縄の改革にあるのかはっきりさせて欲しい気がする。基地関連費用以外の沖縄振興予算を一旦廃止して沖縄支配階級層の内部改革を促したらどうかという気がする。
補足: 韓国に似たもの言いが気になる
2015.10.29
翁長知事が辺野古埋め立て承認を取り消し、国交省がその取り消しの効力停止し防衛省が工事再開したりしているが、今後も沖縄県と国との対立が長引きそうである。相互に話し合いはすると言っているようだが、翁長知事の態度が歴史認識を改めなければ首脳会談はないと言っていた韓国のもの言いに似て絶対条件を付けている感じがしているのが気になる。翁長知事は工事再開など国は強引だというが前知事が承認したことを強引に瑕疵があるとしてしまった感もあり、国を強引というなら翁長知事の方が強引を始めたわけである。自分で決めたゴールしかゴールは成立しないというのでは傍からは話し合いの余地はないように見える。
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