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かつての「たかじんのなんでも言って委員会」というTV番組からたかじんの冠がとれて何回目かの5月3日の「なんでも言って委員会NP」では、「テレビは死んだか」というようなメインテーマでいくつかのサブテーマについて話し合っていたのだが、その中に「コメンテーター」というテーマもあった。最近、元官僚がコメンテーターをしていたTV報道番組で番組の話題に関係なく自分が政府のバッシングを受けているというようなことを発言し物議を醸したことから取り上げられたようである。
芸能人などの人寄せパンダ的コメンテーターに否定的な意見は少数ながら予想通りあったが、大方はコメンテーターは専門家がその専門的問題について解説するのが本来のあり方とする意見に落ち着いた感じだった。そして知識人・文化人と目されるひとたちが自分の専門外のことに自分は知らないと言わず専門家まがいにコメントすることが問題だと思っている感じだった。問題を起こすのは、食っていくために専門外のことをも専門家のごとくコメントする職業化したコメンテーターという指摘は当たっているかも知れない。
またいわゆる芸能人や有名人などが専門外コメンテーターを務める場合については、問題について深く知らないが一般視聴者の目線での印象・感想を述べ番組に色を添え番組企画者の意向に視聴者を共感させるツールとして存在価値があるという意見もあった。視聴率確保のためには必要だということである。言っていることが当たり障りなくとも言い方とか反応の仕方で視聴者をキャッチできればそれでよいということのようである。そこに人寄せパンダの効用はあるらしい。放送局にとっては重要なことだそうである。
私は報道番組・ニュースショーで専門外のことについてもコメントする番組出演者としてのコメンテーターはうなずき役であるとむかし誰かが言っていたのを思い出した。番組製作者の意図を分かりやすく伝えるためにそれに添った意見を述べ番組としての見解に共感を得る役目ということのようである。番組の初めから終わりまで全ての話題をカバーしてコメントするということは専属コメンテーターという定職のようなものなのだから番組製作者の意向を踏まえて振る舞うことを期待されているというわけである。私はその意見に賛成である。本当の専門的コメントが必要なら専門家を呼べばよいのである。
私は、私のような歌を上手く歌えない素人の聴き手があの歌手は上手いとか下手だとか、自分の感覚で感じ思ったことを言うことはなんの不思議もないことであると思っているから、いわゆる何でも屋的コメンテーターについてはあまり違和感は持っていない。そして大方のコメンテーターは自分の発言はそういう性質のものだと自覚して抑制的に関わっていると思っている。たまに番組でそういうなんでも屋的位置づけにあるコメンテーターあるいはあることの専門家らしきコメンテーターが専門外のテーマについて自分は本当の専門家だとか学者だとかあるいはパネリストだとか勘違いして専門家的に関わろうとする場合に問題が発生するのだと思っているわけである。
補足: 話題の発端となったテレビ・コメンテーター問題のその後
2015.05.26
3月28日に古賀茂明氏がテレビ朝日の「報道ステーション」のコメンテーターを降ろされるのを逆恨みして、本番中に自分で作ったプラカードを出すなどの常軌を逸した言動に出たのだが、そのときの古賀茂明氏の「安倍政権が私を脅迫している」という被害妄想発言をニューヨークタイムズが取り上げたのが発端になって、以来「ファシストの安倍首相が言論弾圧に乗り出した」という欧米メディアの対日イメージが世界に拡散しているということである。
テレビ朝日のスタッフによれば、本番中古賀茂明氏が打ち合わせにないことを延々としゃべって台本の裏側にこっそりコピーしたスローガンまで出したので生放送であんなことやるのはルール違反だということでプロデューサーも抗議したというのが事実ということらしい。ニューヨークタイムズの日本駐在だかの記者は日本が例えば軍国的体質を持っているなどという独特な偏見を持っていて日本を低く見ているからではないか、あるいはニューヨークタイムズに限ったことではないが日本に来ている記者には冷戦以後二流以下の人物が多く本社に注目され引き上げられる機会を狙って人目を引くような記事を仕立てることがあるがこれもその一環ではないかという見方をする人もいるようである。
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屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編:
No.18 体験しないで言うな・・・のこと [2000(H12).09.17]
No.247 たわごとのこと [2007(H19).07.02]
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