屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.18 体験しないで言うな・・・のこと (H12.09.17)

田口ランディという人の書いたインタネットのジャーナル記事を見た。田口氏が原爆の日に関する記事を書いたところ、その記事に対して被爆二世の読者から原爆を体験していないのに何が解るのかとの誹謗の投書が来た。そのことについて田口氏が書いた感想記事(MSNジャーナル9月12日)、それが私の見た記事である。以下それを見ての私の連想である。

体験しないものや自分が出来ないものへの発言が人の気持ちを逆なですることがある(ようである)。いくつか例を挙げて考えてみる。

私の知っている人に本の編集者がいる。ある時彼が編集した本について、あの著者の書き方は云々と批評したことがある。そのとき彼はひどく立腹して自分で書けもしないのに偉そうに言うな、言うなら自分でも書いてみろと言った。これは口封じである。自分の編集のまずさ、あるいは本の内容に足りぬところがあることを知っているから言っているのである。やれるならやってみろ。できないんだろ。だったらおまえの言うことは正しくない。こういう論理をふりかざすものは信頼しないほうがよい。

私は次のように反論している。私はプロの歌手ではない。プロの演奏者ではない。歌は下手だし、バイオリンも弾けない。でもあの歌手はあまり上手くないとか、あれよりこっちの奏者のほうがいいとか言う。件の彼もあの歌手は下手だなどと常々言っている。歌手の批評は誰でもして良いが、本ならそれ以上の本を書けなければ批評してはいけないという訳はない。自分の都合の悪いことを言わせないように口封じをしていると言う所以である。

さらに偉そうに言わしてもらう。吉田健一の「東西文学論」という本を読んだことがある。その中に苦労に身を投じないとそれを書けない作家と、実際に苦労を体験しなくともそれを書ける作家では後者のほうが作家能力は優れていると書いてあったと憶えている。能力があれば体験しなくともわかることはあるのである。

つぎは会社へ勤めはじめたころの話である。同僚に競馬をやっている男がいた。ある日その同僚が昨日競馬に勝った、勝ったと騒いでとくとくと自分の成功譚を喋りまくる。私は競馬をやる気も興味もないが、その場の社交辞令で「どうやると勝てるの」と聞いた。彼は突然怒って素人はすぐどうやれば良いのかと聞く、やったことのない素人に話しても解らないと怒鳴った。

なにも競馬に勝ちたいから聞いているわけではない。いろいろ自慢しているから社交辞令でその場をつないでいるだけだ。人は興味を持つから話を聞いているとは限らない。自分の話が人にはつまらないかもしれない。だがそれを聞いてもらいたいと思う。だから人の話も興味はなくとも聞く。おたがいさまである。それが礼儀というものである。それなりに軽くいなして会話を続けるのが大人というものである。

彼にしてみれば自分で金をつぎ込んで得たノウハウを簡単に話せと言われたと思い腹を立てたのかもしれない。でもそんなものはないのではないか。あったら競馬の予想屋が商売しているはずがない。自分で儲けてしまえばよいのにそうせず商売しているということは勝つ負けるは時の運ということである。彼は見かけ大言壮語していても問われて言うべきことがなかったのだと思う。幼稚な子供は上手く言えないと怒り出すことがある。よく似ている。

すごい技術などをただで公開せよと言うのは虫のよい話である。しかし世の中の出来事などについて意見を求めたり言ったりすることはなにも悪いことではない。たがいにそうやって理解を深めていくのである。やってもいない(体験もしていない)のに解るものかと怒る人は実は自分の能力のなさを隠すためにそういう行動に出ているのである。

どこにでも、できないくせに人に先を越されて怒り俺にだってできる、やろうとしていたなどと言う者がよくいる。そういうのに限って難癖をつけたり人の足を引っ張るのがうまい。


 
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