屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.247 屋久島(136):たわごとのこと  H19.07.02)

私はこのHPで行政などのことも時に話題にしている。だから政治活動に興味があるのかととられることもある。しかし私は自分の感覚でちょっと引っかかることや成り行きが気になることについて感想・意見を述べているだけであって、自分が行動して何か成果を挙げようという気はさらさらない。

つまり口先だけの傍観者ということである。それは自分がたいした人間でないことを自覚しているからでもある。それなら出来もしないのに偉そうに人のことなどに口を出すなと言われるかもしれない。それに対して私は次のように反論することにしている。うまく歌を歌えない素人がプロの歌手が歌うのを聞いてあの歌手はうまいとかへただとか、あの歌詞はよいとかあまりよくないとか、メロディーがすばらしいとかたいしたことはないとか、勝手に言うのと同じである。

また私は感想や意見を言うのだがそれで外部から何か成果を得ようとか影響を与えようとか思っていない。つまり口先だけで言っておいて自分は動かず他の人を動かして自分の期待する成果を見るというような気はさらさらない。歌手に自分の作詞作曲の歌を歌って貰おうとか思わないのは、よい歌詞を作ったり、よい曲を作るほどの力が自分にないことが分かっているからである。素人の家の中での手慰みで結構というのが私の気持ちである。

そもそももう私は努力する気がないから、仮に可能性があっても人に認めて貰うように歌詞や曲を自分で歌いながら売り込んで歩くような、自分で汗をかくことはしたくない。自分で汗をかいて認められてからでないと、だれも素人の作った歌を歌ったり聞いたりしてくれないのと同じで、口先で感想や意見を言っていても誰も動くことはないのだが、だからといって私は自分で活動する気は毛頭ないのである。自己満足の口先だけの傍観者、それが私である。

そういう私の野心を持った移住者に対するたわごとである。私は田舎の活性化あるいは改革は田舎の人が主導して達成するのがよい、移住者は裏方に徹する方がよいと思っている。外部のものが表に立って動くことについては、はじめは効き目があると評判の薬が身体の中に固い組織を作りそれが身体全体を仕切る、すなわち癌みたいなものになりしはしないかと気になってしまうのである。だから害にならないかどうか身体の様子を見ながら身体の持ち主が決めていくのがよいのではないかと思っている。

そういう観点から、私は行政への思いであれ事業への野心であれそれを遂げるため人を動かす前に、まずは自分で動き自分で成果を出そうとしている人を評価している。その成果が望ましければ自然と人は付いてくる。不言実行、もっと良いのは有言実行、言行一致。人はそれを見ている。移住者はまず地元の人たちの信頼を得ることから始めることが大事である。


 
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