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2月11日付産経新聞の「曽野綾子の透明な歳月の光」に於ける「労働力不足と移民」と題したコラムが問題視されているようである。アパルトヘイト肯定だとか人種差別だとか批判されている。私は曽野綾子氏のかなりの本を読んでいる。そして共感するところは多かったから、曽野氏の本意は批判されているところにはないのではないかという気がしている。
曽野氏は、例えば労働力不足の介護を例にすればいまよりもっと資格だの語学力だのといった分野のバリアは取り除き労働移民し易い状況にしたらよいと思うが、不法滞在という状態を避けなければ移民の受け入れも長続きしないと考えている(注:通常1年以内の居住を指す季節労働者は移民として扱う場合が多く、受け入れ国の法的手続きによらず移入した人々を不法移民と呼ぶ)。そして曽野氏の基本的認識として他民族の心情や文化を理解することはむずかしいという思いがある。
みなそれから目をそらしてはなしをする傾向があるが、特に貧困層の移民は移民元では余剰人口の排出の一面があるし移民先では安価な低賃金未熟練労働力の供給源となるわけである。そしてその一方、文化摩擦や失業などを背景に犯罪集団を形成し各種犯罪を起こすことも各国で発生しているわけである。曽野氏はその文化摩擦のアナロジーとして南アの白人と黒人のコミュニティのあり方の違いがもたらす既存コミュニティの崩壊の恐れを例示したわけである。そのような例やその他の曽野氏の経験などの考察から、(多分全てをとは言っていないと思うが)外国人を理解するために居住を共にするということは至難の業だという結論に至ったものと私は理解しているわけである。
曽野氏への批判が、外国人はどう勝手に住み暮らしてよい。移民を受け入れた国の人々はいままでのコミュニティがどうなってもそれを受け入れよと言っているのであれば気になる。そこのコミュニティが成立している前提に合うような暮らし方をする外国人なら問題はないのだが、外国人がコミュニティとかけ離れた自分の国での居住生活の様式を押し通す場合は既存住民のコミュニティが崩壊する恐れがあるわけである。既存コミュニティ・移民受け入れ側としては困るわけである。それを避けるには、それぞれの居住生活の様式を尊重して居住だけは別ということにならざるを得ないということになるわけである。批判する側も対案があれば示した方がよいと思われる。私は曽野氏がこういう現実的問題を提起したと見ている。
自分たちは既存コミュニティあるいは社会が崩壊しようが関係なくやりたいようにやるのでそれを我慢しろ、そして既存コミュニティあるいは社会のサービスは全て受ける権利があるというのでは受け入れ側に負担を強いるだけである。ヨーロッパなどの移民問題は初め現地同化を期待して受け入れた移民が多分同化を願っていないということがはっきりして来た面もあったからではないかと思われる。その国に同化しないで頑なに自分の国での居住生活の様式を押し通してきた結果だとしたら、その解決策としてはそれぞれの居住生活の様式を尊重し居住だけは別にした方がよかったということかもしれないのである。居住は別の環境下で仕事・事業・研究・運動など他のことは何もかも一緒にやって来ていたら、いままでの年月を経た結果は出自によらず能力をありのまま評価されるようになったかも知れないのである。
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