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  たわごと編: No.114  
  2012.07.16 大津・中学生いじめ自殺に思う教育環境監察制度  
 
  いじめが自殺などの不幸な結果になって表面化することが多いのだが、いじめというのはいじめていると周囲に見えるようにしてやるものというよりは、いじめられる側だけがいじめられていると分かるようにやるもののような気がする。私の社会へ出ての経験だが、いびる人間は表向きは好意的に振舞っている素振りをしながらいびられる本人あるいはかなり事情を知っているひとにしかわからないようにいびる。いじめもそういう性格のものではないかという気がする。

いじめはそういう観点からは、いじめられている本人あるいはその事情を知っている何人かのうちの誰かがシグナルを発しない限り表沙汰にならないのではないかと思われる。多分何かの悪い結果が出るかなり前からそれらしきシグナルは出ていると思われるが、警察がよく言う事件にならないという段階に似て、学校や教育委員会が解決に乗り出す確固たる根拠がないという理由をつけて手を打たない。他のことで忙しいとか問題ありということになれば何をやっていたかと非難されるとか、自分の子に限ってという親の感情に押されて、それらしきシグナルに目をつぶってしまうのではないかと思われる。

よく会社の現場などでは危険予知とか言って、問題が起こる前に問題に繋がりそうな事象に対して事前に対処することが求められている。危険予知訓練というのも行われている。危機管理というのはこれの高次元のものである。何か予兆があれば先に手を打って未然防止あるいは被害低減しようとするのである。いじめについては意識の問題も大きいと思われるので、これはいじめに繋がると思われることを潰しいじめ行為をする意欲を抑制することが効果的ではないかという気がする。ニューヨーク市の割れ窓理論である。街なかに割れたガラス窓を見つけたらすぐ修理することによってそれを放置していた頃と比べ大幅に犯罪発生が減ったということである。

事態が大きくなってから騒ぐのではなく、ちょっとした情報・シグナルに即応して手を打つ、またその関係者を継続フォローしていく、そういう教育現場を作ればいじめは起こりにくくなると思われる。いじめはあってはならないのではなく、必ずその芽はあるものとして抑制する手を打つことが必要だと思われる。学校は自己評価でいじめが無いことを申告することで評価されるのではなく、生徒・保護者側に評価を求めその結果を学校の評価とすべきである。

学校側にはいじめ抑制・防止の活動とその結果に対する責任があるが、いじめは教師が煽るものは論外として一義的にはいじめをする人間とその保護者に問題があると思われる。そのことを明確にして、警察に警察官の不正を監視・追求する内務調査部署があるように、生徒と家庭そして学校あるいは教育委員会などのいじめをめぐる人間関係を構成するひとや組織の割れ窓に対応する組織を設けたらという気がする。現状報道で見る限り特権意識の見え隠れする教育委員会や学校側(あるいは教員労組もそこに含まれるかも)は問題告発に対する被害者意識が強い印象だから、教育現場に利害関係を持たない人間で構成するのが望ましい。

今すでにそういういじめなどに対して査察権限のある人権擁護組織が存在していているのなら申請主義ではなく能動的問題発見型活動が求められるが、新たな組織を考えるなら人権事故予防調査官組織として査察権限も持たせたらと思う。異論もあると思われるが、今回警察が捜査に乗り出さなければいけなかったくらいあるいはこうなってからでないと捜査に乗り出さなかったくらい従来体制は機能不全だったことからこういうことを言うわけである。


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屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編:
   No.226  いじめのこと  [2006(H18).10.04]
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