屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.226 いじめのこと  H18.10.04)

最近テレビで北海道の小学校で今昨年9月当時6年生の女子児童が自殺をはかり今年1月死亡した事件について、学校や教育委員会が書置きにいじめられたと明言されていないからと、いじめはなかった、自殺の原因はいじめだとは考えないと今まで言い続けてきたことについて、やっと少しは教育委員会が誤りを認める方向になったというニュースを見た。

報道された書置きを見ればいじめの可能性が大であり、学校や教育委員会がその事実を認めたくない、原因の追究をして根本対策を打つよりは責任回避に奔っていたような印象を受けた。学校や教育委員会が物理的な要件を満たさない限りいじめと認識しないような発言をいままで繰り返してきたらしい。

いじめやいびりの真髄は、それを受けるものが訴えてもそれと分からないようにすることである、受ける本人を一人疎外しそれをだれにも分からないようにすることである。人前では軽く冗談めかしたいじめっぽい言動をしつつ仲良しの風を装うと、周囲は仲良し同士の戯れかと思う。しかしそのいじめっぽい言動が本音であると本人にだけは分かるように疎外しつづける。

外面ではよい嫁と誉めまくるが、家の中では嫁を受け入れていないと本人にだけ分かるような振る舞いをする。妻が夫に訴えても夫は分からない。よく嫁いびりの実話ドラマで見かけるはなしである。あるいはまたあいつは優秀だなどと周囲に誉めまくりながら、自分の地位を脅かす部下を本人にしか分からないようにいびり倒そうとする上司などもサスペンスドラマのテーマでよくみるところである。

このような大人の世界であることは子どもの世界でもあると考えないといけない。自分たちの責任回避には策をめぐらし言を左右にする能力があるのに、そういう想像力が欠けている。そういう自分たちの欠陥を公表し続けてきた愚を件の北海道の学校や教育委員会は自覚しないといけない。

補足: いじめを認め謝罪のこと  (H18.10.05)

今日、北海道・滝川市の市長と教育委員会がいじめがあったと認め遺族に謝罪したということである。いままで原因究明に集中しすぎ書置きの公表その他の対応がおろそかになっていたとのことだが、その原因究明は進んでいないようである。


 
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