屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.181 痛みのこと H17.07.04)

ほとんどの場合、人は立場が弱いときには自分の気持ちを抑えるものである。しかしそれが分からない人間は、弱い立場の人間が受身にあることを当然として、あいつは打たれ強いとか言って執拗に打つ。温和な性格だとか言っては軽んじてないがしろにする扱いをする。黙々と従ったりあるいは強行に意見を言わないのはその立場をわきまえてのことである。しかし執拗に打たれたりないがしろに扱われて何も感じていないわけではない。痛みを感じないわけではない、我慢しているのである。

最近ある高校の生徒が突如爆弾傷害事件を起こして、はじめは学校の会見でまじめと評価されていた生徒だった伝えられ、近所ではおとなしいと見られていたとかいう報道があった。その後生徒の間では目立たない存在でいじめられていたという報道も出てきた。そういう話を耳にして生徒の起こした報復行動を肯定するものではないが、周辺はまじめとか大人しいと言われている人が淡々と軽んぜられても意に介せず生きていると思い込んでいる。本当は弱い立場のものが痛みを我慢しているかもしれないことに無頓着であることが問題の一面にあると思うのである。

私も人生でいろいろ不快に思うことはあった。その場その場で勝つ力が無ければ引き下がるしかない。ないがしろにされたり、執拗に打たれたりして悔しい思いを飲み込んで今に至っている。そういう気持ちがあるから毎日が日曜日の今でも回りにあまり強く出ることもしないし人の非を執拗に責めることもしないようにしている。それで大人しい人間とみられている。しかし表に出さないからといって何も感じていないわけではない。痛みは感じている。怒りもあるのである。抑制を利かせて、聞き流したり、程度がひどいときはその後近づかないで済ませているのである。

私は大きなところでは、それで一回は会社を事後の対策を十分してからだが辞めたこともある。しかし大きなことについてはもうないだろう年になった最近はちょっと引っかかるような小さなことが気になる。大人しくしているからと嵩にかかった言動をとったり、ないがしろにする人間も多くなった気がする。世の中が他人の思いや静かに行動する人の価値に無頓着になってきているのではなかろうかという気がしている。

一例である。裕福な親戚とある行事の相談で金額負担の調整をしようとしたことがある。そのとき金が無いからそちらで負担せよと言っているかにとられ、後日歓談の際に「俺は金は貸さない、やむをえないときはくれてやる気で出す」と言われたことがある。金を貸せと言ってくるなということである。その後はこちらから連絡を取ったことはない。相手から挨拶があっても表面的対応で終始させている。

また一例である。翌日2人で大物釣りに行く。経験者から明日の準備をしようと電話があって出かけ、一緒に準備をしていたら「明日は俺が大物を釣る、お前は餌の小魚を釣れ」と言う。「先輩と立ててはいるが俺はお前の家来ではない、とぼけたことを言うな」という思いを抑えて「なんで、それぞれ大物狙って楽しもう」といなしたことがある。表では友だと言いつつも心中軽んじているからそれが言葉になって出る。以後徐々に付き合いを薄くして今は挨拶程度の仲になっている。

また一例である。ある趣味の会でのことである。例会の日主催者と上手の2名と初心者の私が先に着いた。3人でテーブルなど準備していたのだが、大体の形が整ったところで他の2人がまだ機材をそろえている私を無視して「それでは始めましょうか」とゲームを始めてしまった。私は面白くなく即退席、その後しばらく参加を見合わせていた。それでも主催者は近所の人、道で会う。会ったとき「来ないのか、主催者のやり方が気に食わないなら、これまでだな」と言われ、上下関係でしか人を見ていないと嫌気が差し趣味の会を完全にやめたことがある。

これらは目くじらを立てるほどのこともないたわいないはなしだが、日常よく経験することでもある。しかし敢えてそういう話題をあげるのは、いじめとか人には気づかせないいびりとかはこういう類のエスカレートしたもので、そこここにその原因となるようなことに無頓着な人々はいるということを言いたいからである。特に人より優位な立場にいる、あるいは自分でも優位を自覚している人間は無意識に人を貶めることがある。無意識ゆえにそれに対抗するのはなかなか難しい。


 
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